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2011年10月21日

北陸大学不当解雇事件、勝利的和解-4年半の戦い 支援する会、市民、両教授、教職組の団結の勝利

祝 全面勝訴

北陸大学教職員組合
 ∟●組合ニュース第302号(2011年10月20日)

勝利的和解-4年半の戦い
支援する会、市民、両教授、教職組の団結の勝利

 2011 年9 月21 日、両教授と理事会との解雇問題は、和解で法的な処理がなされました。物心両面で支えてくださった「支援する会」の人々と、その4名の共同代表の方々、北陸大学教職組、さらには全国的に「即時復職要求署名」運動を繰りひろげて下さった「賛同署名の呼びかけ人」の20 名の方々、そしてその呼びかけに応えて署名をして下さった市民の皆さん、第1 回目の929 名(非公開14 名)、第2 回目の7649 名の方々に厚く御礼を申し上げます。
 また、2人の職場復帰に向けて科目担当への努力を続けてくださった未来創造学部長及び同教務委員長にも感謝を致します。多くの人々の熱い支援で解雇無効、現職復帰、科目担当、慰謝料を含む失われていた給与相当額の支払い(和解金)が実現できました。
 以下に和解内容、寄せられたメッセージ、教職組委員長所感、投書を紹介します。和解内容その内容は次の通りです。(「支援する会」の報告から引用しました)

1.「原告が雇用契約上の権利を有する地位にあることを認める」(これは、解雇無効という意味です)
2.「被告は、本件解雇を理由とする一切の不利益な取扱をしないことを確約する」(これは、あらゆる待遇について一般教員と同じ取扱をすることの確約です)
3.「被告は、原告の授業担当につき、教学側の意思を尊重する」(これは、授業復帰を意味します。そもそも解雇理由はドイツ語科目を廃止したので「担当する科目がない」ということでしたが、これまでの和解協議で被告理事会側は、原告が要求していた代替科目の担当について、大学教学の事項なので理事会では決められない、としていたところ、大学教学側は原告との話し合いで原告両者についてドイツ語以外の担当実績、能力に配慮し、他の科目担当を認める意向を示しました)
4.「被告は、和解金として原告2名に対し逸失利益の全額と慰謝料の支払い義務があることを認める」(これは、論理的には解雇に関して被告理事会が自らの非を認めたことを意味します。既に1 審判決で全面的に敗訴しており、心理的にも2 審においてさらなる敗訴を回避するために自らの非を認めざるを得なかったと言えるでしょう)

……

北陸大学教職組委員長所感

和解に際して思うこと(荒川靖)

1.職員をいじめて何の得があるのだろうか。
 最近、組合員ではないが、事務局長を始め重要なポストに異常ともいえるほどの数の(定年ではない)退職者が出ている。退職した職員の中には上から暴力を受けた人がいるという話も聞こえてくる。心が折れるほどの仕打ちを何でもない事と思っているのであろうか。慰謝料を払えば解決する、という姿勢では、世間からの信頼は到底得られない。

2.林屋亀次郎初代理事長の言葉「先生と学生を大切にしなさい」。
 この言葉は、教職員を統括する立場の人間に向けてのものと思われる。250 日教育にはスケジュールに教員の名前が当てはめられ、授業が行われることになる。しかし、授業は単に学生の前で学習すべき事柄を一方的に話すだけではダメなのである。学生が理解しているのかを判断しつつ、どうすれば自分の話を聴いてもらえるのかと工夫する「魂を込めた授業」が行わなければ、教育効果がない。大学当局から大切に扱われない教員が果たして、魂をどれだけ注入できるのか、甚だ疑問である。

3.人の上に立つことの意味。
 偉ぶるためではないのだ。組織・団体で仕事を進めるためには指揮が必要になるが、指揮者のやり方と組織員の指揮者に対する信頼度が結果に大きく影響する。その人の資質や業績の高さ、アイデアの合理性などを他人が評価する。評価が高ければ、人の心を掴むことが容易であるし、また尊敬を受けることにもなろう。そうでなければ、人を動かすことはできないのだ。人が嫌々従って行う仕事は、ろくな結果を生まない。

投書:不当解雇撤回について教職組に寄せられた投書を掲載します。

 今回、不当解雇訴訟が和解し田村・ライヒェルト両氏が復職されたことについて、若干の感想や要望を述べさせて頂く。
 何はともあれ、4年以上にわたる裁判を闘ってこられた両氏に心からご苦労様と申し上げたい。また同時に、いかに両氏に理があっても組織を相手に個人が闘うのは大変なことで、到底、普通の人間ではなしえない。その意味で両氏に最大限の敬意を表するものである。
 ところで、和解とはいうものの、実体は、田村・ライヒェルト両氏の主張が全面的に認められ、「解雇は合理的な理由を欠き、権利の乱用」と断定した一審判決がそのまま追認され、法人側の主張はことごとく却けられた。控訴審もこのままいけば両氏の全面勝利となるとわかっていたから、法人側は両氏の主張をすべてのんで「法人全面敗訴」という判決を避けたのであった。
 あらためて法人には経営者としての責任と自覚をもってほしいと切に思う。この裁判で北陸大学が得たものはなにか。解雇をちらつかせて、法人に対する批判を封じ、組合を弱体化させて給与その他の人件費を抑えることには成功した。
 田村氏を排除するためにドイツ語を廃止したように、科目の設置から、授業担当者の決定まで、本来、教学側の判断で決定されるものが法人側の意向によって覆され、今なお授業を持たせない教員を作り出している。裁判が終結したとは言っても、法人のこうした姿勢が変わらない限り、第二・第三の解雇事件はおこるであろうし、また、そうしたプレッシャーを常に教員に与えておくことが、法人にとって都合のいいことなのである。
 しかし、この裁判によって北陸大学が失ったものはとてつもなく大きかった。まず、北陸大学のイメージを極めて悪くし、また暗いものにしてしまった。大学間競争の厳しいなかにあって、どの大学も広報戦略にひときわ力をいれ、大学のイメージアップを図っている。しかし、北陸大学は自らそのイメージを悪くしてしまった。
 例えば、教員を解雇したということは社会的にどのようなイメージを与えるか。北陸大学は教員を解雇するほど財政的に困っているのか(実際はそうではなく資産は増えている)。また、教員を解雇するとは何と冷徹な温かみのない大学か。あるいは教員を大事にせず、解雇するような大学はほんとうに学生を大事にするだろうか。薬学部は「人にやさしい」薬剤師の養成をキャッチフレーズにしているが、教員を解雇するような大学が「人にやさしい」薬剤師を養成する資格があるのか等々、マイナスイメージはとてつもなく大きく広がっていく。
 しかも解雇された教員はどんな人物だったのか。例えば、法学部時代の田村氏のゼミは最も人気のあるゼミの一つであった。教養部時代からの教え子も多い。また、石川県の小中高の先生方にも顔をよく知られている。真面目で誠実な人柄は万人の認めるところである。そういう人物を組合の委員長だからとか、法人を批判したからという理由で解雇するなど、誰が見ても正気の沙汰ではなかった。多くの卒業生や地元の小中高の先生方を北陸大学は敵にしてしまったのだ。多くの卒業生や地元の先生方が田村氏の解雇撤回署名に名を寄せていたのだ。その意味で法人は人を見る目がない。経営者として重要な資質を欠いている。
 さらに田村氏は、薬学部を除く文系の教員の中で、単著数冊をふくめておそらく最も研究業績のある全国クラスの研究者である。授業の評判も良く、全国クラスの研究者を排除するなど、教育と研究を旨とする大学の経営陣としてはまさに見識が疑われる。口では教育の大切さを言いながら、実際はそれと正反対のことをしているのである。
 こうしたマイナスイメージが、高校生や受験生、さらにはその親御さんたちに反映されないはずはない。未来創造学部は200 人の日本人学生を集めることができない。外国語学部と法学部の最後の入学者数は編入を除いて321 人であった。入学者数の減少は、決して教員や職員のせいではなくまさに法人、経営陣の責任なのである。
 我々は、今回の裁判に限らず、経営陣が大学の経営者としてその資質と資格を有していない事例を何度も目撃してきた。学長選挙しかり、日本刀事件しかり、理事長給与月額100 万円アップ事件しかり、枚挙に暇がない。今度こそ、経営陣はその責任を明確にとるべきである。
 両氏に対する公式な謝罪表明すらまだなされていないが、その上で、経営陣の責任を明らかにすべきである。そして、そのことが北陸大学再生の不可欠の条件である。
 この裁判による上述のような北陸大学の社会的イメージの失墜→入学者数の減少は、ひとえに経営陣の責任であり、万死に値する。北陸大学の名誉を傷つけ、社会的信用を失墜させた者は、懲戒の対象であることは就業規則にあるとおりである。これをまず法人自ら実践すべきである。