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2004年07月22日

高遠菜穂子氏、イラクで起きたこと(シリーズ1)

<イラクで起きたこと>高遠菜穂子 1 拘束 牙むく「反日」 死を覚悟

北海道新聞(2004/07/21)

 四月七日午前十一時ごろ、千歳市のボランティア高遠菜穂子さん(34)は、イラク中部ファルージャ付近の迂回(うかい)路沿いにあるガソリンスタンドで、銃で武装した男たちにタクシーを止められた。前夜、ヨルダンの首都アンマンをたち、七日午後にはバグダッドに到着する予定だった。札幌市のフリーライター今井紀明さん(19)、東京在住のジャーナリスト郡山総一郎さん(32)が同行していた。これが九日間にわたる人質事件の幕開けだった。
 スパイ容疑をかけられたのです。タクシーが止まると、数十人の群衆に囲まれました。私はその人たちが発する、何とも言いようのないものすごい力を体に感じて、座席で身動き一つできなくなっていました。
 イラク戦争の終了後も戦火にさらされ続けた住民の怒り、憎しみ、悲しみ。それが私に向かって襲いかかってきた、と考えていました。
 「ヤーバーニ、ムーゼン(日本人は良くない)」。みんな敵意がむき出しです。人垣の向こうからロケット砲を持った男も走ってきます。「もうだめだ」。その瞬間に死を覚悟しました。
 タクシーを少し移動させられると郡山君、今井君が順番に降ろされ、ボディーチェックされました。民衆が再び、じわじわとタクシーの周りに集まり始めます。武器を持っておらず、普通の住民のようでした。
 「私はアメリカ人じゃない。スパイじゃない」。知っているアラビア語をつなぎ必死に訴えました。だれも聞こうとしてくれませんでした。
 悲しいのはイラクの人たちが「反日」に変わったことです。以前は「どこの国の人より日本人が大好き」と言ってくれていたのです。
 私たちはガソリンスタンドで近寄ってきた男の子に国籍を聞かれ、「日本人」と答えた直後に拘束されました。日本人と確認の上で捕らえられたことがショックです。
 反日感情の「芽」があることには気付いていました。今年一月、交流のためバグダッドの小学校を訪問した時、女性教師に「あんたは人道援助をかたった日本軍(自衛隊)のスパイだ」と小一時間も罵声(ばせい)を浴びせられました。十日ほど前に夫を、イラク戦争終了直後には弟を殺されたと聞きました。でも、それからわずか三カ月で、これほどまでになっているとは予想もしませんでした。
 「おまえがスパイでないと証明できる人間はいるか」。別の車に乗り換えて倉庫のような一室に連れていかれると、英語を話す人が聞いてきました。
 「ファルージャの総合病院に行ってよ」と言いました。医薬品を届けるために病院には何度も通い、知り合いもいたからです。でも、米軍が道を封鎖していて行けないと言います。私は嫌疑を晴らすため、ファルージャについて知っていることは全部話そうと考えていました。
(聞き手・黒田理)
                   ◇
 イラクで北海道の二人を含む日本人三人が人質となり、国中を震撼(しんかん)させた衝撃の事件から三カ月余り。解放後、外部との接触を避けていた高遠さんが重い口を開き始めた。子どもたちと路上から眺めたバグダッド。血にまみれたファルージャの病院。自由を奪われ生と死を見つめ続けた日々。事件を振り返り、語ることは、戦火のイラクで起きたこと一つひとつを問い直す営みともなった。(8回連載します)

<略歴>
 たかとお・なほこ 千歳市生まれ。麗澤(れいたく)大(千葉)外国語学部英語学科卒業。大学在学中に米国留学。会社勤務の後、千歳などでアルバイトをしながら、2000年からインド、タイ、カンボジアで孤児を世話するボランティア活動などに従事する。イラクには、03年4月末から今年2月まで延べ半年間滞在し、路上生活する子どもの社会復帰の手助けや医療支援を行ってきた。人質事件に遭遇した今年4月のイラク訪問は、長期的な活動の足場づくりが目的で、道内外の賛同者から寄せられた募金を元に子どもの支援拠点を設ける計画だった。著書に「愛してるって、どう言うの?」。


投稿者 管理者 : 2004年07月22日 00:48

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