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2004年11月25日

横浜市立大学の中期目標に対する懸念

大学改革日誌(永岑三千輝教授)
 ∟●最新日誌(2004年11月24日(2))

 新首都圏ネットワークの記事から、神奈川新聞に報じられた本学の「中期目標」なるものを知った。(同僚からの情報で、大学HPには22日付で掲載されていることを知った)いったいどこで検討され、練り上げられたものであろうか? すくなくとも評議会や教授会では一度も議論になっていない。評議会や教授会の議事録を点検してみればわかることである。公立大学法人の目標は、大学を構成する一般教員には関係ない、ということか。大学がどのような目標を掲げるべきか、大学人が正式の会議で議論したことがなく、まずは新聞を通じて(そしてHPを通じて)知るということはおかしくはないか?大学が掲げる目標を大学人の正式な機関で一度も議論したことがないということは、異常ではないか?これで大学の力を結集できるのだろうか?いろいろなところで「総力を結集する」という文句はあるのだが。

 「教育重視」は結構だが、それではこれまで教育は重視してこなかったのか?中期目標に掲げられる「教育重視」は、これまでと何がどのように変わることなのか? 教育すべき内容は研究を通じてしか獲得できない。教育との関連で研究重視はなぜ言わないのか? 「教育重視」という文句は、研究などここ数年、いや十年以上、やってこなかった人々がいるとすれば、その人々には都合のいい単純化された目標であるかもしれないのだが。研究の質とは何か、これも問題になる。

 また、「地域貢献」は結構なことだが、それでは、これまでの「地域貢献」とどこがどのように違うのか? 地域に貢献するためには、大学らしい研究蓄積がなくてはならないのではないのか?陳腐な研究で地域に貢献することはできるのか?地域の人々も普遍的な課題・地球的な課題とは必然的に関係する。なぜ「地域」に限定するのか?

 先日のトッフルに関する事務局管理職発言に典型的に見られるように、外向きに当り障りのない美辞を並べることは実は簡単なことであり、その実質的裏づけ固疎が問題となる。そこをきちんと考えていないことが大学教員を激怒させる(あるいは諦観状態に陥れる、諦観させ無気力化させておいてあとで「あり方懇」答申のような外部からの超越的な表現で大学人を非難する・・・ある「結果」がいかなる諸要因で形成されたのかの総合的分析が必要なはずだが、それがない)[1]。大学研究者が、学界の水準でそれなりに仕事をしようとする場合、どれほど大変なのか、時間的精神的な大変さがまったくわかっていない人々の発言と感覚に、大学研究者は怒る。

 大学教員が職務として仕事をする一週間40時間のうち、いったい何時間を「教育」や「地域貢献」に振り向けるのか?教育のための研究、地域貢献のための研究は、しかるべき蓄積を必要とする。その研究時間はどうなるのか?先日の教養ゼミAの会議の際に、何人かの人(少なくとも二人)から「来年は大変だ」とため息が出る発言があった。旧制度の時間割での負担と新しい制度での負担とが重なるからである。統計を取ってみればいい。どのように過重負担になるか。そうした過重負担に対してどのような配慮が実際になされているか?

 研究時間がなければ、表面的な時間数はこなしても、教育はおざなりになり、繰り返しだけになり、「10年一日のごとく」なるのではないか?

 裏づけとなる研究時間・研究条件(予算)への配慮を欠いた態度を続けていくと、教育内容は悪化し、地域貢献は実質的にはできなくなろう。社会的貢献の実質を形成構築すべき研究時間・研究条件に対する保障が、実質的にどうなるか、問題はここにある。普通は、研究休暇、サバティカルなどがどんどん制度化され、大学教員に保障されている。夏休みさえも、「補講」で削り取る態度がまかり通れば、サバティカルなどどうなるのだろう。


投稿者 管理者 : 2004年11月25日 00:49

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