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2004年06月30日

失敗した研究者−処遇の判断、信頼性に

日経産業新聞(6/29)より

 研究開発における失敗をどう活用するかと題して講演した際に、失敗でリストラや配置転換になれば活用できないのではないかとの質問があった。企業全体の枠組みの中で、失敗を積極的に活用する趣旨の話に対する個人の立場からの反論である。
 日本の企業では研究開発の失敗でクビになることはないかわりに、成功しても大きく報われることがなかった。青色発光ダイオードの特許裁判以後、開発成功に対する個人の貢献が問われている。成功への貢献が問われるならば、失敗に対する責任も、となるのが自然だが、現在のところ表だって議論されていない。もし、責任を短期的に問うようになれば研究開発は進められない。なぜならば、開発対象が独創的であるほど失敗の確率が多く、その経験を活用しないと成功に到達できないからである。
 青色発光ダイオードの中村博士は「研究力」という本の中で、会社のトップは繰り返し「研究をやめろ」というメモをよこしたが、全く無視したと述べている。新聞によれば、一方のトップは「やめろ」とは言わなかったそうなので、よく分からないところがある。
 確かなことは、結果は出ていないが成功を確信して多くの失敗を乗り越えていた研究者と、もしかしたら成功をもたらすかも知れぬ研究者をクビにできない経営者がいたことである。
 開発の成功に対する個人の貢献は、今後も異なるケースで議論されるであろう。同時に失敗した研究者の処遇や企業のリスクも議論されるにちがいない。成功を確信して研究を一層支援するか、目標に対して異なる接近を助言するか、あるいは配置転換やリストラの対象にするか、研究者に選択の権利があるように、経営者にも選択の権利と責任がある。
 ところが経営者の判断の根拠は「選択と集中」というような言葉の蔭(かげ)に隠れて見えない。多くの場合、表現しにくい人間くさい要因による判断が重要なのだろう。結局、判断の根拠は研究者個人に対する信頼ではないだろうか。
(東京大学名誉教授 山崎 弘郎)

投稿者 管理者 : 2004年06月30日 00:10

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