個別エントリー別

« 文部科学省所管独立行政法人の役員の報酬及び退職手当並びに職員の給与の水準の公表について | メイン | 東京都立大学人文学部教授会、「身分・雇用に関わる諸条件が未確定な段階での就任承諾書提出について」「学則上の教員人事に関する教授会権限の記載について」 »

2004年07月02日

教育基本法改正、子どもの現実と遊離している

山陰中央新報(6月30日付)社説

 自民、公明両党による教育基本法改正の検討会が中間報告をまとめた。教育の目標に愛国心をどう盛り込むかについて「国を愛する」と表現する自民と、「国を大切にする」とする公明の間の溝が埋まらず、決着は参院選後に先送りされたが、改正に向けた基本的な骨格は見えてきた。

 中間報告は、教育の目的について「人格の完成を目指す」とする現行法の文言を踏襲したが、教育の目標として「伝統文化の尊重」「公共の精神の重視」「主体的に社会の形成に参画する態度の涵養(かんよう)」などが新たに追加された。「国を愛する(大切にする)態度の涵養」もこの目標に盛り込まれている。

 現行法は教育はまず、個人のためにある、という考えである。個人としての人格の完成が、よき「平和的な国家及び社会の形成者」につながるという文脈だ。

 これに対して中間報告は、重心が「公」意識の育成に大きく傾いた。現行法にある「個人の価値」「自発的精神」などの言葉が消えた。背景にあるのは「個人の尊厳の行き過ぎ」という考えだ。

 長崎県佐世保市の小六女児死亡事件で、平沼赳夫前経済産業相が「個人の尊厳が行き過ぎて、生徒同士が殺し合うような荒廃した状況になっている」として基本法改正を求めたのは、その典型だろう。

 人々が、どうして事件が起こったのかと頭を抱え、家庭裁判所もこれから加害女児の精神鑑定に入ろうというときの何とも無責任な発言だが、法改正を求める空気を代表しているのも確かだ。

 だが、そうした空気がいかに根拠に欠けているかは、過去に凶悪な事件を起こした少年たちの姿で明らかだろう。家裁などで積み上げられた事件の分析によれば、こうした少年たちは個人として受け止めてもらった体験に欠け、自己肯定感を持てずに爆発している。

 上から「公」意識を注入しても子どもたちの問題解決にはならない。基本法の言う「個」として尊重されることこそ必要なのだ。

 一般的道徳律を法律に書き込もうという姿勢も気になる。家庭教育について「親は子の健全な育成に努める」という文言を盛り込んだのはその例。親が子どもを健全に育てるのに異論はないが、法律で強制する性質のものではない。

 注目されるのは教育行政における国の役割が前面に出たことだ。教育権が国家に独占された戦前の反省から生まれた教育基本法は、教育の自主性を定め、教育行政の役割を「条件整備」に限定した。教育内容について最高裁は「国家的介入はできるだけ抑制的であることが要請される」と判示するなど、基本法は国の介入に対する歯止めの役割を果たしていた。

 ところが中間報告は教育行政を「国・地方公共団体の相互の役割分担と連携協力の下に行われること」とうたい、国が教育内容に堂々と踏み込める形を整えた。教育は国家のためにあるとでも言いたいのだろうか。学校現場の創意工夫と地域の特色を生かした教育が期待される時代に逆行するものだ。

 上からの教化を強めるようなやり方は、追い込まれた子どもたちの現実と問題解決から程遠い。荒れる子どもが発しているのは、自分をしっかり見てほしい、というSOSである。法の文言をいじるより、子ども一人ひとりを見つめ、個人として尊重することこそ求められている。


投稿者 管理者 : 2004年07月02日 00:39

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://university.main.jp/cgi/mt/mt-tb.cgi/1339

コメント