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2004年10月04日

横浜市立大、新学部のコース長(1年任期)も上から任命

大学改革日誌(永岑三千輝教授)
 ●最新日誌(2004年10月1日)

 新学部のコース長(1年任期)も上から任命されたようである。今朝、ボックスに入っていたコース長予定者の文書(9月30日付け)ではじめて知った。「本日、・・・お引き受けした」ということなので、昨日、すなわち9月30日のことのようである。「国際教養学系・国際文化創造コース」の33名の教員宛の文書である。他のコースがどのようになっているのか知らない。記者会見はないのか?

 この間の学部編成・コース編成・カリキュラム体系等が教授会等による自由でオープンな議論の結果ではないことを反映して幾多の問題を抱えていると思われるが、その点をこのコース長予定者は指摘して、「引き受ける条件として、当コースのカリキュラムについて、科目名の変更を含んだ見直しを行うこと、そしてその変更は当コースが実質的に教育を開始する平成18年度当初までに完了することを申し出」たそうである。その仕事を任期の1年以内に完了する、という決意表明がなされている。

 これに対して、行政当局が任命した「学長予定者・副理事長予定者・副学長予定者・国際総合科学部長予定者」から、「最終的には、合理的な理由の説明があり、それが教育研究審議機関の了承を得られれば、変更が可能であるとの回答を得た」という。その回答を得たので「コース長を引き受けた」と。その決意表明によれば、「これからの教員間の民主的な議論によって当コースのカリキュラムをより良いものにしていこう」ということである。もちろんそれは絶対に必要なことである。ただ、「民主的な議論」の結果は、どのような有効性と貫徹力を持つのか?という疑問、制度的には無視しうる構造ではないか、という疑念が残る。無視しうるという制度的保障を得ているとの認識からの発言であるとも言える。制度的実質的保障がないからである。

 最初の学長については上からの任命に関して定款に基づく一定の正当化が可能であるが、学部長以下コース長までが行政当局によって、教授会(もっとも肝心の教授会編成がなされていない・・学校教育法に規定された教授会を設定するという最も重要な点が欠落したまま進んでいるということ、ここに本質的問題があるであろう・・法的に必要な最低限のことをきちんと明示しないというのだから、その遵法度合いが検証できるであろう)の自立的自主的意向を確認することなく任命で決められるようなシステムにおいて、「合理的な説明」との判断は誰がするのか? 現行学則とその精神(学部長・研究科長等の民主的選挙)を尊重しない態度(ストレートな「上から」・「外から」の任命)を見ているとき、疑問を感じて当然ではなかろうか?

 「教育研究審議機関」もまたそうした上からの任命システムで構成され、教授会等の自律的主体的な検討と発言力を保障しない場合(聞き置くだけという態度が取れる場合)、約束された「回答」なるものに意味と有効性があるのか、疑問ではある。コース長を引き受けた方のご「苦労」はわかるが、さてどうなるか。

 新学部教授会・新研究科教授会が構成されない、その編成方針さえも示されないということは何を意味するか?大学内外の行政的にものごとを処理したい精神が貫徹しているということである。三つの学部を一つの学部にし、四つの大学院研究科も一つにしたのであるが、その趣旨はどう生かされるのか? ここには根本問題があるということである。上記コース長予定者は、コース内の問題に関していろいろと具体的な問題を把握しているということである。もちろんそれも大問題である。今後の調整・変更も重要である。

 しかし、さらに問題なのは、学部・研究科の全体像・全体的構成ではないのか? この間、コース設定等における細部だけは、いろいろ検討されたにしても、コース相互間の関連、学部・研究科としての発展的な内実はどうなっているのか?また、文科系と理科系の二つの研究院の構想はどうなったのか?

 諸科学の総合的な有機的発展のために、新しい学部や研究科を作ったのならば、コースなどという「蛸壺」だけで議論が済んでしまうのではなく、全学部・全研究科での自由でオープンな議論を可能とする制度設計が必要なのである。それは、単に上からの説明会を開いて、一方的に上から流したい情報だけを流すというあり方とは違うはずである。この間の行政主義的手法、徹底的秘密主義の跋扈などを振り返ると、事は容易ではない。

 本来大学においては、学問、諸科学の根本的根底的な意味での民主性こそが、制度化され、機能しなければならないあろう。権力(行政)・財力(予算)・単なる数といった学問外的諸要因が民主的システムによる検証と規制抜きに支配すれば、統合は表面だけのことになり、科学はいたるところで腐敗するであろう。独立行政法人の独立性、公立大学法人法の諸規定(独立性・自立性・自律性)など、どこに実現されるのか、ということでもある。

 いまのままだと、単なる事務室の統合・職員削減・教員削減・予算削減、学部数の削減(3が1に)、研究科数の削減(4が1に)という数値目標だけが明確に小学生でも計算できるほどはっきりと達成されたとしても(そで行政当局の「業績」は明示でき、行政的にはそれで終わりだとしても)、大学としての固有の発展的なものはないということになりはしないだろうか?

 「あり方懇」は、かつての大学にどのようや評価を下したか?

 今回の「改革」の結果は、その総体がいずれ何年か後に検証されるであろう。

 それだけではなく、研究教育の本来的な実績が問われることになろう。当面さえやり過ごせればいい人には関係ないことだろうが。


投稿者 管理者 : 2004年10月04日 01:10

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