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2004年11月29日

予防訴訟弁護団会議と準備書面

澤藤統一郎の事務局長日記(2004年11月27日)より

予防訴訟弁護団会議と準備書面

「日の丸・君が代 強制反対予防訴訟」の弁護団会議は本日午後4時から9時過ぎまで。少々くたびれる。しかし、いつものことながらたいへん充実している。教育現場にいる教員たちとの議論が新鮮で面白い。決して独りよがりではなく自分流の教育実践に誇りを持っている人たち。このひとたちが平和や民主主義を支えている。権力側が必死になって何とか押さえ込もうとたくらむ気持ちも分からぬではない。

締め切りが迫ってきた準備書面は200ページではおさまりそうにない。うかうかしていると300ページにもなりそう。裁判官に、読ませる工夫が必要だ。

尾山弁護団長の思惑どおり、この準備書面作成の過程で弁護団員がベーシックな教育法理論を学習している。問題意識を新たにしつつ、ようやく教育訴訟の力量を獲得しようとしている。

準備書面の構想が次第に固まってきた。大要は次のとおり。
何が起こったかの事実論については既に訴状で明らかにしている。問題は、その事実に対して、どのように法律的な評価をすべきかということ。正しい法的判断をするためには、事案に即して教育条理を明らかにしなければならない。憲法、条約、教育基本法、学校教育法等々をどんなに眺めても、それだけでは真の判断基準は見いだせない。これらの、法体系を生み出した教育そのものの理解と、歴史的な背景を理解して初めて、正確な解釈の道具としての法の精神を獲得できる。

したがって、まず戦前の教育を概観しなければならない。天皇制政府が、いかに国家主義的・軍国主義的な教育体制を貫徹したか。教育の目的を非人間的な国家への奉仕とし、いかに中央集権的な上からの教育を推し進めたか。その結果、どんなに非道な軍事国家が誕生したか。それを明らかにした上、戦後教育改革が戦前の教育を徹底的に反省して、個の確立と自由で民主的な教育体制を作ったこと。今もかわらぬ教育法体系は、まずは戦前の国家主義的教育を否定するところから出発したことを明らかにする。

それだけではない。現行の教育法体系は、近代教育の本質そのものが要求する教育の公理を体現している。教育の本質は個の可能性を自発的に引き出すことにあり、権力的強制には本質的になじまない。教育は本来的に自由の中でこそ成立する。それが、教育学の教えるところなのだ。教師は、生徒と人格的な関係を形成し、無限に多様な状況下で専門性を生かした教育活動を行う。教育内容に行政が介入してはならないといことは、近代教育の普遍的な条理にほかならない。

ちなみに、民主的先進国といわれる各国の教育法制や、国旗国歌の取扱いを概観すれば、日本の現状が如何に異常であるかが明らかである。

わが国の現実はこの近代教育原則の公理に照らしてどうであろうか。戦後教育改革の成果冷めやらぬうちに、逆コースが始まる。教え子を再び戦場に送るまいという合い言葉で結集した教員組合の抵抗がありつつも、教育理念は少しづつ侵蝕されていく。中央集権的、管理主義的、差別的な教育路線が進行する中で、「日の丸・君が代」強制も着々と進行する。「日の丸・君が代」強制とそれへの抵抗は、実は根の深い国家主義的管理教育と、民主的な子ども中心の教育観との衝突である。

法体系としては、憲法の精神的自由の分野と教育理念の分野とが、ともに重要である。憲法19条は思想良心の自由を無制限に定める。本件は、教員の思想・良心・信仰の核心に直接関わる問題である。当然に起立・不起立で思想の踏み絵を踏ませるような状況に教員を置いてはならない。仮に、不起立という不作為を表現行為として21条の問題とするにしても、これを「公共の福祉」という訳の分からぬ一言で制約することは許されない。「職務の公共性に由来する内在的制約」と言葉を換えても同じこと。内在的制約とは、両立し得ない他の人権との衝突において調整されざるを得ないというにすぎない。これは、憲法学界の定説である。不起立という教員の消極的表現行為と衝突する他の人権は考えられない。調整原理が必要とされる局面ではないのだ。

憲法の教育理念の分野においては、教育基本法・学校教育法が定めるとおり、そして各種国際条約が明らかにしているとおり、教育は行政の支配から自由でなくてはならない。「日の丸・君が代」への対応は、すぐれて内的教育事項の範疇に属するものであって、行政の介入があってはならないものである。

その他で、被告側が主張することが予想される憲法上問題となりそうなものは、全体の奉仕者論であろう。公務員であるが故の権利の制約が無限定に許されてはならない。結局は、教育現場という特殊性故に権力の意思が貫徹されねばならぬものか、教育の本質故に権力の一方的イデオロギーの注入への抵抗が保護されるべきかの価値判断となる。

また、10・23通達は、まず学習指導要領の遵守をあげる。しかし、その法規としての拘束力は、その上位の法形式である憲法・教育基本法・学校教育法・子どもの権利条約・教員の地位に関する条約などに違反しない限度での大綱的基準として認められるに過ぎない。この理は、旭川学テ最高裁大法廷判決が確認するところである。

実は、これだけでは済まない。もっと多岐にわたる。たくさんの注文が出るたびにテーマと紙幅が際限なくふくらんでいく。最後はばっさりと切らねばならない。それでも、どれほどの分量になるものか。

準備書面をパンフレットに作ろう。という提案があった。訴訟の進行が、その都度書籍になって出版されれば、こんなに有益なことはない。パンフレット最後を画期的な判決で締めくくりたいものである。


投稿者 管理者 : 2004年11月29日 00:16

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