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2004年11月15日

大学、戦後以来の改革―共同体から経営体へ(今を読み解く)

日本経済新聞(2004/11/14)

 日本の大学は改革の真っただ中にある。
 四月には全国八十九の国立大学が国立大学法人として再出発、六十八の法科大学院が開校した。全大学に七年に一回、認証評価機関による第三者評価を受けることが義務づけられ、構造改革特区に株式会社立大学も誕生した。私立学校法も抜本改正された。産学連携や社会貢献は、教育、研究に次ぐ大学第三の使命とされ、社会の期待は高まるばかりだ。
 一連の改革は、明治期の帝国大学創設、戦後の新制大学発足に匹敵する大改革で、当事者の大学人ですら、ついて行くのが精いっぱいと悲鳴を漏らすほど、内容は多様だ。外部の人間が全容を理解するのは容易ではない。

大衆・市場化に対応
 高等教育研究の第一人者、国立大学財務・経営センター教授、天野郁夫の『大学改革――秩序の崩壊と再編』(東京大学出版会、二〇〇四年)は、改革の全体像を知るのに、格好の一冊だ。法人化、評価制度、法科大学院などのテーマごとに、現在何が起きているのか、問題点も含め具体的にときほぐす。
 天野によれば、日本の大学改革は、一九八〇年代の米国や英国に端を発する改革の波の一周遅れの動きだ。背景にあるのは、大学の「大衆化」「市場化」「グローバル化」という三つのメガトレンド。大学像は、「知の共同体」から「知の経営体」へ、大きく変質せざるを得なくなった。さらに日本固有の問題である「十八歳人口の急減」「産業・職業構造の急変」「進学率の頭打ち」の三要素が加わり、今日の改革ラッシュになった。
 だが、文部科学省は、環境激変への対応に追われるだけで、新たな高等教育のビジョンを描き切れてはいないようにみえる。「文部科学省という参謀本部が、十分に作戦を組み立てる時間も能力もないままに、戦線だけが拡大し、前線の指揮官とでも言うべき学長をはじめとする大学のリーダー層が困惑している」。いつもながら、天野の舌ぽうは鋭い。
 大学問題で苦しんでいるのは日本だけではない。桜美林大学教授、潮木守一の『世界の大学危機―新しい大学像を求めて』(中公新書、二〇〇四年)は、英米独仏四カ国の大学が直面する危機を、歴史的経緯を踏まえて描き出す。
 大学以外の高等教育機関を大学に昇格させた一方で、評価制度で予算を傾斜配分する英国。平等な公立大学の限界から脱却しようとするドイツ。グランゼコールなど大学以外の高等教育機関との調整で苦慮するフランス。大学院の“発明”で世界の学問の頂点に立った米国。大学制度は各国様々だが、先端的研究やエリート養成などの「卓越性」と、「大衆化」という、相反する課題をどう克服するのか、本質的な課題は共通している。

商業化が進む米国
 今や、世界で独り勝ちと言われる米国の大学。日本の改革の多くは米国がモデルだが、その米国で急速に進む大学の商業化について、ハーバード大学の元学長が警鐘を鳴らしているのが興味深い。デレック・ボックの『商業化する大学』(宮田由紀夫訳、玉川大学出版部、二〇〇四年)は、大学スポーツでいち早く商業化の道を歩んだ米国の大学が、産学連携やインターネット講義などで、研究、教育の分野でも商業化を進めていると指摘。商業化の意義は認めながらも、期待したほどの利益をもたらさないだけでなく、市民からの信望が揺らぐという代償を長期的には払うことになると懸念を示す。
 潮木の前掲書によれば、米国の研究大学と呼ばれる私大四十九校の収入源は、基本財産収入(四〇%)と事業収入(一七%)で過半に達し、授業料はわずか一三%に過ぎない。抜群の財務体質が、世界中から優秀な研究者と学生を引き寄せる米国大学の力の源だが、二十年間も学長を務めたボックの懸念は、周回遅れで米国の後を追う日本の大学にとっても他人事ではない。


投稿者 管理者 : 2004年11月15日 00:12

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