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2005年01月13日

横浜市立大問題、「過去の失敗の歴史に学びつつ、どうたたかうか」

伊豆利彦氏のホームページ 
 ∟●新掲示板2 http://www1.ezbbs.net/27/tiznif/
学問の自由と大学の自治の危機問題(佐藤真彦教授)経由
 ∟●「日々通信」131号を発行しました

1729.「日々通信」131号を発行しました。
名前:伊豆利彦 日付:1月12日(水) 5時37分

横浜市大の問題は横浜市大だけの問題ではない。
都立大学も首都大学という大学に変わる。
これが全国的な動向なのだろう。
都立大学の学生は奮闘しているようだが、要請や抗議を繰り返しても,彼らは多数をたのみ権力を行使して、聞き流すだけだ。
市大の学生、教員を情けなくおもう気持は<うのき>さんに同感だ。
昔、そこの教員だっただけに、その思いは切実だ。
しかし、それが市大だけの問題でなく、市大の教員も決議や要請などにも懸命に努力した。
教員組合の努力もめざましかった。
とくに、卒業生は大変に努力した。
しかし、結果は無残なものだった。
それが、日本の現実だ。
学生たちもアンケート集めその他の努力をしてアピ-ルしたが空しかった。
ファッショにたいしては従来の<民主的>方法では駄目なのだと思う。
もっと市民に訴えなければならない。
デモやハンストなどの闘争方法もあるだろう。
いまの新ファシズムは、投票による市民の支持を基盤に民主的よそいをしているので、市民の自覚が大事なので、市民に直接アピ-ルする努力が必要だと思うし、マスメディアの力も利用しなければならない。
しかし、いまの情況はそれに期待することも難しそうだ。

昭和の歴史でいえば、ある意味で、滝川事件の段階から美濃部事件以後の段階に進んでいるのではないかと思うのだ。
この状況で、過去の失敗の歴史に学びつつ、どうたたかうか。
それが、いまの問題だろう。
All or nothing で、全面解体の道をたどるのか、いま、新しい状況に対応して、多様な方法を駆使して抵抗運動をつづけ、できるだけ広範な市民に訴えつづけることが大切なのだと思う。

さまざまな分野でさまざまな努力が必要となるだろうが、文学研究者で年をとった私には私の方法があると思う。

この前の戦争の悲惨な経験で、日本人の意識変革が実現されたと思ったが、それはまだ、表面的だった。

日本人はさらに悲惨な経験をしなければならないのだろう。
その経験の意味をはっきりさせ、日本人の意識変革のために努力したい。
目の前の現実に目を奪われて、大きな展望を見うしなってはならない。
しかし、大きな展望に目を奪われて、いまの現実を直視することを忘れてはならない。
いまの現実から目をそむけるなら、その大きな展望は観念的な夢想に終るだろう。

この頃、漱石とともに啄木について思うことが多い。
まだ、しばらく、考えたり、書いたりすることができる間、すこしでもなにかをしたい。

やはり、また、漱石が死の年の正月に書いた「点頭録」のことが思われる。
私も私なりに、どんな小さなことでも、私にできることをつづけたい。

1738.大学を記憶する
名前:うのき 日付:1月12日(水) 19時42分

伊豆先生の文章を読ませていただき、自分の書き込みは先生のお心を暗く、そして苦しくさせるばかりであり、誠に申し訳なく思う次第であります。深く反省いたします。
しかし、今まであえて、目をおおいたくなる事態を凝視する必要を私なりに感じて、それを強調して書き込みましたのでありました。
ここでも、先生からの対応を受けて、もう少し思うところを述べさせてください。

先生のご指摘の通り市大の大学人は市大問題について何もしなかったのではなく、その「努力もめざましかった」と、私も思います。
しかしながら、結局のところ何を誰に訴えかけたのだろうか、という疑問が私には根っこのところにあるのであります。
伊豆先生は「市民の自覚が大事なので、市民に直接アピールする努力が必要だと思うし、マスメディアの力も利用しなければならない」と言われています。
私もおおむね同感なのでありあます。
しかし、ここで市民は何を自覚しなければならないのでありましょうか。
そして、この場合の市民とはいったい誰のことでありましょうか。

私はまず大学人も市民であるという自覚をもつことが第一だと考えます。
自分は「市民」とは違った立場にたって、他人へ自覚を促したりアピールしたりしても、その声はいったいどこまで届くのでありましょうか。
そして急いで付け加えたいことは、一般市民すべてを対象としても、問題は発散するばかりです。この闘いは選挙戦のような票集めをする類の次元とは違う、ヨリ深い闘いがなされなければならないと思うのであります。
ここで私が言う市民とは、まずもって大学人である市民への問いかけの必要であります。

今、都立大と市大で起きていることは、全国の大学でも同じようなことが起きるのは必至であります。ただいま両校とも情勢は劣勢であります。
おそらくこのままでは大学は解体する方向へ突き進みます。
同じ敗れるにしても、都立大のように来るべき時代に備えて真の学問の種と芽を植え付けて希望を残す学問的な闘いをするか、市大のように文字通り何も闘わず何も残さず絶望だけを残すか。

それにしても都立大大学人(=市民)と市大大学人(=市民)はなぜ組織的に共闘しなかったのでありましょうか。
お互いに「自覚」を促したり「アピール」したりすることすらできなかったのはなぜでありましょうか。
それこそ真の学際的交流と呼ぶべきものが始動する可能性があったのではないか、と思うのであります。

今回の大学問題の対応、とりわけ市大大学人の頽廃ぶりをもって、一般市民へ大学存続を訴えるのは、不遜ではないかとすら私は思うのであります。
とりあえず機会あらば自分が退官するまでの安住の地を求めて転出すれば後はどうでもよいとする教員と、とりあえず自分の在学中は所属学科も大学も潰れなければこの問題についてな~んにも考えない院生・学生。すべてがみんなそうだとは申しませんが、多くはこのこのようなひとたちによって大学が構成されていることこそが現在の真の大学問題なのだと思うのであります。

それでも、私たちにはふたたび選択の自由はあります。

すなわち、近い将来に他大学が闘うためのモデルとして(漱石風に言わせていただきますと「記憶してください。私はこんなふうにして生きて研究して闘ってきたのです。」でありましょうか)、そして何よりも自分たち自身の研究環境を獲得するための努力をすることもできますし、あるいはそうしたウザイことを拒否して、今後の事態がさらに悪化する傾向にコミットすることもできるのであります。


投稿者 管理者 : 2005年01月13日 01:15

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