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2005年03月11日

「公立大学という病」更新雑記(2005.3.8)

公立大学という病:横浜市大時代最後の経験
学問の自由と大学の自治の危機問題
 ∟●「公立大学という病」 更新雑記 (2005.3.9)
大学改革日誌(永岑三千輝教授)
 ∟●最新日誌(3月10日)

国際文化学部の川浦先生のblogが更新されていた。学生の記事に異を唱える短文からは、先生の無念さが痛いほど感じられる。それにしても同記事で「ゼミの改廃は改革の前からあった」と平然と語っている改革担当の職員にはア然とするばかりだ。流出する教員数の問題をすっぽりと抜かして回答している。官僚的開き直り答弁の典型だ。学生の記事もそこを突っ込む必要があったのではないか(全体としてはよく書けているとは思うが)。市大からどれほどの教員が流出しているかを御存知ない方は、是非佐藤先生の検証で確認いただきたい。
 さて、数ということで思い出した。あまり話題になっていないようだが、市からの運営交付金は7億円の削減になるとも聞いている。教職員の人件費に換算すれば70~80人規模の削減にあたる。独法化で高額な報酬が予想される理事長や理事を抱えることになることもあわせて考えると、いったいどこにそのしわ寄せがいくのであろうか。かつて総務部長の放言録には市大病院は「安全が優先しすぎて、経営にたいする感覚が薄らいでいる」というトンデモ発言があったが、大学病院予算から7億の金を引きあげるというのではなさそうである。他人ごとながら気にかかる。
ある方より市大のホームページに予算が掲載されているとの連絡をいただいた。やはり、大学だけ(病院を除く)で約7億円強(8.5%)の削減となっている。また今後5年間で約6億円強を減額するともしている。法人化された国立は1%の効率化係数による削減だけでもヒイヒイ音をあげているのだが、そんなことは我関せずの削減の仕方だ。おそらく市長の再選を見据えた実績作りだろうが、まさに無謀といえる予算カットで確実に大学の研究・教育の劣化は免れえない。その被害を被るのはいったい誰なのだろうか。

大学改革日誌(3月10日)より

今回の「改革」が大鉈を振るって予算削減をまずは実現した、という側面だけははっきりしてきたようだ。「赤字」問題を提起した「あり方懇」(市長諮問委員会)の主張(本日誌3月3日付の「市長語録」を参照されたい)が、実行されているということだ。大学の「商品」である教員はどんどん減りつづけてもお構いなし、数字あわせだけがうまくいけば、目先の実績にはなる、ということか? 10年後、20年後、その付けが出てくるはずだが、そんな先のことは考えない、「わが亡き後に洪水は来たれ」と。
しかし、大学教育は、10年後、20年後、いやそれ以上の射程を持つものではないのか?
そうした大学の根本的使命に対する見識がないとすれば、そうした人々に大学の命運を任せてもいいのか?
「実利的でない基礎研究や文学などの分野」の切り捨ての危惧について、「心配なのは貧すれば鈍することだ。小さな国立大の中から、背に腹は代えられないと、切るところが出るかもしれない」という東大次期総長の発言は、市大(=小さな国立大と同じか?)ではすでに行われているということではないか。

下記の記事がいう「改革担当の職員」の唖然とする発言は、先日の朝日新聞記事の中にも見られた。予算削減などは議会が決めることなので、という文脈で、自分たちには責任がないと正当化していた。それは、大学人(大学内部の人)のスタンスではないことは確かだ。少なくとも私はそれを感じられなかった。学生の要望や希望を踏まえて大学を発展させようと精神が感じられない冷たいものという意味で。
行政当局の「改革担当」がまさにそのような精神だということが「公立大学という病」の根底にあるのだろう。そしてその病をますます昂じさせようとするのが、{定款}(=諦観)の運用の仕方であろう。「全国国公私立大学の事件情報」(3月10日)における次期東大総長・小宮山氏の発言と佐和隆光京都大学教授の発言をみればわかるが、国立大学法人の場合も同様の問題があるようである。これも引用しておこう。


投稿者 管理者 : 2005年03月11日 01:01

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