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2005年04月02日

横浜市立大新学則、評議会は廃止 教授会の実質的な審議権は一切ない すべて「代議員会」

大学改革日誌(永岑三千輝教授)
 ∟●最新日誌(4月1日)

 ボックスに横浜市立大学学則(新旧対照表)が入っていた。すでに大学公式HPに掲載されているかとアクセスして見たが、掲載されていないか、見つからなかった。まずはっきりと目に付くのは、章別編成で、旧学則の「第11章 教授会、評議会及びその他の機関」が削除されたことである。評議会は廃止。教授会は、第10章の運営組織の最後尾に置かれている。すなわち、教授会には第75条、第76条があてられ、

 「第75条 大学各学部に教授会を置く 2 教授会の運営に関することは別に定める。」となっている。「別に」というがどこに定められているのか、私が失念しているのか未定なのか。

 「第76条 教授会は、その定めるところにより、教授会に属する教員のうちの一部の者をもって構成される代議員会を置く。2 代議員会の議決を持って、教授会の議決とする」と。
 つまり、教授会は一応おくが、そして、その審議事項も第77条のように定めるが、すべては「代議員会」で決めてしまう、というわけである。とすれば、教授会にはいかなる意味があるのか?名目はおいておくが、実質的な審議権は一切存在しない、というのは欺瞞的ではないか?ある意味では、これまでの評議会の権能を「代議員会」がもつ、というところだろう。

(教授会の審議事項)の名目のもとに次のように書かれている。
 「第77条 学部教授会は、以下の事項を審議する。
 (1) 入学、進級、卒業、休学、復学、退学、除籍、再入学、転学、転学部、転学科、留学、学士入学等学生の身分に関すること。
 (2) 学部運営委員会から付議された、その他学部の教育に関すること。

 しかし、第76条から明らかなように、すべては代議員会が議決するのであって、教授会の実質的権限はないということである。こういう制度は、大学の合理的な制度なのだろうか?

 大学の自治、学問の自由との関連で一番問題となる人事(権)にかんしては、人事委員会に関する第73条、第74条で規定している。
「第73条 学長の諮問機関として人事委員会を置く。
「第74条 人事委員会は、教育と研究の水準の向上を図るため、全学的な視点にたって、より優秀な人材を招聘し、確保する仕組みとして機能すること及び全教員を対象とした公募性、任期制による教員人事を、公平性・透明性・客観性をもって行い、教員人事の活性化、適正化を計ることを目的とする」と。

 しかし実際に、「より優秀な人材を招聘し確保する仕組みとして機能」するかどうか、その保障はあるのかどうか、問題はここにある。「公平性・透明性・客観性」がどのように実現されるか、これが問題となる。任期制による教員人事が、「より優秀な人材を招聘し、確保する」ということの合理的説明は、教員組合はじめ、多くの人々が問題提起し批判しているように、いっさいない。学則のこの条項に書くことが、場合によっては「優秀な人材」の応募を制限し、ひとたび選んだ「優秀な人材」の「確保」もできなくする、という根本的問題が、提起されている。「新法人・新大学の人事」だからといって昨年行われた公募人事が、その最初の試金石となる。公募は、まさに行われた。しかし、公募は本当に優秀な人材を集めようとすれば、すなわち、全国に周知徹底するためには、ある程度の期間が必要であるが、その期間はどうであったろうか? 設置申請にあわせるために、これまでの通常の期間よりも確か短かったと記憶する。「設置申請にあわせるために」必要となった人材は、これまでの教員の他大学からの割愛(従って他大学への流出)があったからではないか?

 次に公募に応じた人々に対して、これまでの教授会の選考のやり方に比べて、どこに公平性・透明性・客観性がある(あった)のか?少なくともわれわれ教員はこれまでのような教授会でのデータ(経歴・業績等)の公開がなく、審議にいっさい参加していないので、まったく不透明であり、したがって、客観性、公平性がどのようであるのか検証できない。非公式情報の「うわさ」が流れているだけである。ふつうの教員には何も知らせなくても、「透明性・客観性・公平性」は保障されているというのか?この実例を見てもわかるが、今後、この人事委員会制度とその「公平性・透明性・客観性」が実際に検証されなければならないだろう。しかし、だれがやるのだろうか? だれにその権限があるのだろうか?


 新しい組織として、「研究院」がある。第83条がそれにあたられている。
「第83条 大学に教員が研究を行う組織として研究院を置く。 2 研究院について必要な事項は別に定める。」と。
 研究をおこなう組織である以上、研究院に属する全教員が、自分たちの研究をどのようにおこなうか、どのような研究予算があり、どのような研究可能性があり、どのような研究費配分があるのか、それに関して自由に意見を述べ、配分決定に参加するシステムがなければ、恣意的な予算配分、恣意的な研究助成等で、研究の自由が左右されることになる。そうした最も肝心のことが「別に定める」となっており、それがまた不明である。誰が決めるのか? どこで決めるのか? 研究評価こそは、世界的に確立している審査原則(ピア[1]・レヴュー)の適用が必要なところだが、それはどうなっているのか?  制度運営において、ピア・レビューをはじめとする研究評価(予算配分)の公平性や客観性・透明性を保障するには、それなりの規則・ルールが必要だが、それはどうなっているのか?適正に規則・ルールが運営できるようなシステム(院長の任命なども行政組織、法人組織の意向が貫徹するようになると研究者の自立性・自律性は奪われ、ひいては研究の自由がないことになるが、その意味では研究院長が誰になるかも決定的に重要な意味を持つが)は、どうなっているのか?

 今回の学則に関して、すべての組織のあり方に関して、教授会・評議会はまったく無視されてきたということから考えれば、また、4月以降、評議会が廃止され教授会も実質審議の主体ではないとされている以上、重大な問題があってもなにも議論できない、ということになっている。しかし、今後は、真に大学の発展を考え、学則の改正等必要事項は、教員組合などが提起していかなければならないのではないか。医学部(医学科と看護学科)は明らかに専門職を養成する高度な専門学部だと思われるが、そうした医学部を含む横浜市立大学を「実践的な国際教養大学」と位置づけていいのか、という根本的な問題(理念と現実との乖離)も、冒頭、「第一章総則」のなかにすでに見られると考える。私は、これまでの学則の第一条のほうが、はるかに格調高く、大学の理念にかなったものだと考える。

 新学則、第1章 総則の「第1条 横浜市立大学(以下「大学」という。)は、発展する国際都市・横浜とともに歩み、教育に重点を置き、幅広い教養と高い専門的能力の育成を目指す実践的な国際教養大学として、教養教育と専門教育を有機的に結びつけ、国際都市横浜にふさわしい国際性、創造性、倫理観を持った人材を育てるとともに、教育・研究・運営が、市民・横浜市・市内産業界及び医療の分野をはじめとする多様な市民社会の要請に迅速に応えることを目的とする。」長期的スパンでの研究、たとえば、10年20年をかけてじっくりと取り組むような歴史研究などは必要ない、ということの表明か?小柴氏のような研究は、市民社会の要請に「迅速に応える」研究か?一般に基礎科学は、市民社会の要請に「迅速に」応えるものだろうか。小柴氏が繰り返し言っているように、彼がカミオカンデで捉えた中性子、その実証は宇宙論・世界の成り立ち・太陽系の発生と消滅などに関する決定的な貢献をなす科学的発見であるが、これは市民社会の要請に「迅速に応える」ものであろうか?市民社会の要請に「迅速に応えることを目的とする」大学は、大学に値するか? 大学が掲げる理念だろうか?「迅速」を前面に押し出すことは、学問・科学の真理探究を害しないか?これまでの学則第1条は、「迅速」などということを規定してはいない。

 これまでの学則にあって、今回の学則にない決定的に重要な文言は、「真理の探究につとめ」というところである。大学の使命は、究極のところ「真理の探究につとめる」ところにある。より深い真理、人類が到達した最新の真理認識、その探究と更なる発展、これがすべての根幹にある。真理探究につとめるがゆえに、大学では最大限完璧な自由が必要なのである。それが、憲法的保障の「学問の自由」、「大学の自治」の意味合いである。(「大学の自治」、「学問の自由」に関する憲法の代表的なスタンダードな解説:芦部憲法)真理は具体的であり、人類が発見し活用している真理は無数にあるが、科学技術の発展はまさにこの真理認識と真理の現実的適用とを意味し、これまでの到達点を乗り越えていくところに生命がある。
 最新の到達点を踏まえ発展させるためには、すべてを疑いすべてを批判しうる自由が必要である。人間的社会的事象も自然的事象も、なにが真実で何が真理にか、不明な部分が多い。まさにだからこそ、何かの差別や抑圧を恐れることなく、自由に事実に即して意見が表明できなければならない。精神的自由が保障されなければならない。自由な公論においてもっともも最先端の真理を発見し、その最先端の真理を適用してこそ、学生にも市民にも社会にも世界にも貢献することが可能になる。しかしなにが「最先端の真理」かは、その時々の世界においてはわからない。だからこそ、「探究」が必要であり、探究における自由が必要である。批判の自由は、真理探究の根底的条件である。
 この大学の使命にとって一番肝心の「真理の探究」が、新しい総則第1条に欠落しているということのなかに、今回の改革の問題が、今後克服していくべき課題が横たわっていると考えられる。大学の基本法、大学の憲法から「真理の探究につとめる」という部分が削除されたことの意味を、人はどう評価するか?私はこの文言は、絶対に入れるべきだと考える。

 新年度早々、新しい担当科目の準備をしようと研究室に出てきたが、学則新旧対照表を一瞥すると、さまざまの疑念が湧き出てきてしまった。頭のなかを駆け巡る疑問や不安をそのままにしておけなくて、一筆日誌に書き下ろした。平穏に「真理の探究につとめ」られるようになることを願うが、さてどうなるか。


投稿者 管理者 : 2005年04月02日 00:27

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