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2005年04月18日

論考’05 香山リカ 増えるニートと大学改革 実践偏重 不足する教養 「あるべき姿」の信念なく

中国新聞(2005/04/15)

 十五歳から三十四歳までの若年層のうち、学校にも行っておらず、職にもついておらず、その上、就職の準備もしていないいわゆる「ニート」は、二〇〇二年の調査ですでに八十五万人。そんな衝撃的な数字が先に内閣府から発表された。
 十六年後の二〇二一年には中高年のフリーターが二百万人を突破し、「お金がなくて結婚できない人たち」もますます増える結果、少子化は進行する一方…といった調査結果も民間のシンクタンクから公表された。「働かない、結婚しない、子をなさない」の新三無主義がじわじわと進行しつつあるようにも思える。
 一方で大学進学率は約五割、少子化の中で生き残ろうとする大学の必死の広報活動の効果もあり、”最高学府”まで進む若者の割合は不況の今も減らない。つまり、大学に進む若者も多いのに働かない若者も増えている、もっと言えば「大学を出ても職につかない若者」が増加している、ということなのだろう。
数字のマジック
 景気の回復とともに、各大学が毎年、発表する就職内定率や就職率も改善しているが、ここにはひとつ数字のマジックがある。就職率とは、「就職を希望している学生の中で就職ができた人」の割合。最初から「就職を希望しない学生」や「就職活動に着手しない学生」は、この計算の分母からは除外できている。そして、大学を卒業しても職につけないニートの多くは、この「就職を希望しない・就職活動しない学生」だと考えられる。
 行政が職探しの拠点・ジョブカフェの設置などニート・フリーター対策に乗り出したのと同時に、各大学も就職対策に力を注ぎ始めている。企業で就労体験をするインターンシップを単位として認めたり、社会で活躍する卒業生を招いてキャリア講座を開いたり。専門的知識に秀でた人間より社会に役立つ人材を育てよう、というわけだ。
フリーター研究者
 教員選考でもこれまでのように学歴や業績ではなく、社会での実践経験が重視されるようになってきた。従来の教養課程はほとんどの大学から姿を消し、映画監督、金融マン、私のような臨床医といった”実務家教授”たちがキャンパスを闊歩(かっぽ)するようになった。
 そのあおりを受けて、大学院を経て学術畑ひとすじに歩いてきた若手研究者はこれまで以上にポスト確保が困難となり、さらに予算削減でどの大学も非常勤講師の採用を大幅に減少させていることが追い打ちをかけ、厳しい状況に追い込まれている。フリーターを減らすために講じた大学の措置がフリーター研究者を増やす、という皮肉な結果を招いているのだ。
 また実践面や具体性を重視するあまり、学生たちに基礎的な教養が身につかない、という問題も起きている。大学教員が集まると、「ついに東大にも『ドストエフスキーって何?』と言う学生が入ってきたらしい」といった学生の常識や学力のなさに関するウワサ話に花が咲く。予想された通り、古典や歴史などの教養教育を復活させてセールスポイントにする大学も出てきた。
ビジネスなのか
 しかし、いちばんの問題は大学自体も「なぜ自分たちは変わりつつあるか」がわからないことにある。受験者数の増減や社会の評判にあわせて右往左往しているだけで「大学とはこうあるべき」といった信念がそこにはないので、「実践だ、いや教養だ」といったネコの目のような変化が滑稽(こっけい)にさえ見える。そんなキャンパスで学ぶ若者が、会話術を習おうとニーチェを原語で読まされようと「社会に参加しよう」というモチベーションを持てないのも、当然といえよう。
 国立大学も法人化され、「大学経営だってビジネス」という考えはもはや常識となった。しかし、市場メカニズムのみを信じて変革を進めると、結果的に誰も幸福にならない場合がある。大学改革の行き詰まりとニートの若者の増加は、その貴重な例だと言えるのではないか。「客を増やせばよいというわけではなかった」と動揺する大学には、マックス・ウェーバーが大学人たちに向けた言葉「日々の仕事に帰れ」を贈りたい。(精神科医・帝塚山学院大教授)


投稿者 管理者 : 2005年04月18日 00:34

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