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2005年05月08日

じっと我慢して歌わないだけ、それさえ許されないなら憲法第19条のいう内心の自由とは何なのか

60年目の肖像 第3部 憲法(5) 内心の自由 君が代斉唱に揺れる学校現場 「歌わぬ」こと許されず

京都新聞(2005/05/07)

 三月下旬、京都市伏見区の市立小学校で行われた卒業式。体育館の舞台裏で放送の業務に就いていた教師の野崎康夫さん(五七)の元に、君が代の歌声が流れてきた。
 「嫌な思いをしている子はおらへんやろか」。やるせなさを感じながら野崎さんは考えた。
 卒業式の約半月前に開かれた職員会議で、式の冒頭に国歌斉唱を盛り込んだ進行表が示された。「子どもへの強制はしない。憲法で内心の自由は保障されてますよね」。野崎さんの問い掛けに、校長は「その問題は議論しません」と短く答えただけだった。
 「昔は数時間かけて君が代の意味や歴史を議論していたが、今はそんな関心もなくなった」。一九八六年から十三年間にわたった「京都君が代訴訟」の原告の一人だった野崎さんは悔しがる。
 九九年に制定された国旗国歌法で、君が代は国歌、日の丸は国旗と定められた。学校での君が代斉唱について、当時の有馬朗人文相は憲法一九条(思想、良心の自由)を念頭に「歌わないのは個人の自由。口をこじあけてまで歌わせるのは許されない」と明言した。一方で教職員には「職務上の命令に従って教育する責を負う」と強調した。
 「子どもが歌うかどうかは心の自由の問題とみんな思っていた。今はそれさえ許されないのか」。右京区の中学校の男性教師(四九)は悩む。
 卒業式の予行演習で、君が代を歌う生徒の声が小さいと、教頭は「もっと大きな声で!」と歌い直させた。その様子を多くの教師は壁際で黙って見つめていた。「歌いたくないと言う生徒がいれば、私が説明するから連れてきて、と言われた。これで歌わない自由があるなんて言えますか」
 もともと、革新府政が長く続いた京都府内では、卒業式などで君が代を斉唱する学校は多くなかった。旧文部省の「徹底通知」(八五年)を境に、演奏テープを流す形式での実施が増えた。
 「君が代のテープを卒業式で流したのは特定思想の押しつけで違憲」と教員や住民らが提訴した「京都君が代訴訟」も、斉唱させることの憲法判断には触れないまま、最高裁で敗訴が確定。その合間に実施は広まり、府教委や京都市教委の調べでは、公立小中高での斉唱の実施率は二〇〇〇年度以降はほぼ100%だ。
 「起立して斉唱することへも理解が進んだ。指導上のトラブルもない」(市教委)というが、労組関係者は「報復人事が怖いから表向きは従っているだけ」と話す。
 対照的なのが東京。都教委は昨年から国歌斉唱時の起立や生徒への指導も「職務命令」とした。反対する教員を大量処分したことで対立が激化、「内心の自由」を掲げて処分無効などを求める訴訟が相次いだ。
 五年に及ぶ衆院や参院の憲法調査会では一九条を巡る議論はほとんど出ていない。だが実際は、憲法前文や教育基本法の見直しの中で「愛国心」重視への流れは強まる。国旗や国歌を「尊重する態度」は柱の一つだ。
 そうした中で、いま右京区の中学校の男性教師は物の言いにくい空気を肌で感じている。「演奏を妨害したり、旗を破るわけではない。じっと我慢して歌わないだけ。それさえ保障できないなら憲法のいう内心の自由とは何なのか」
<第19条>
 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。


投稿者 管理者 : 2005年05月08日 00:12

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