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2005年05月21日

大学評価学会、第2回大会の感想

大学評価学会
 ∟●「大学評価学会通信」第5号(2005年4月30日) 2005/05/18掲載

大学評価学会第2回大会の感想

05.04 蔵原清人(工学院大学)

1 大会の概要

 大会は、「今、教育と研究はどこへ向かおうとしているのか-大学・学術政策の評価をとおして-」を大会テーマとして行われた。これは本学会が大学評価の技術的な議論に終始するのではなく、大学と学術の発展のために大学評価をとらえようとする意思の表明であり、昨今のともすれば実務的に大学評価に対応しようとする傾向に対しての批判を示すものであると受けとめた。
 はじめに小柴東大名誉教授の記念講演「基礎科学をどうする」があった。分科会は「認証評価機関」評価分科会、学術・研究評価分科会、大学人権・ジェンダー評価分科会、「2006年問題」分科会が設けられた。発表は学会の内外から12本の発表がおこなわれた。また最後に総括討論が行われたことは、最初の1年の活動を確認する意味があったが、学会の大会として特徴的なことであった。
 参加者はのべ180名に上った。会員以外の参加も多く、大会期間中にも多くの入会があった。また研究者以外の関心も強く、大学コンサルタントやジャーナリストなどの参加も目立った。このように、今日の状況の中で広く関心を集めた大会となり、内容的にも十分な成功を収めたといえよう。
 私は、分科会は主として「2006年問題」分科会に参加したが、この感想では大会全体を通しての研究と討論に関してのべることとする。以下は大会の中で発言したことを中心にまとめたものである。個々の内容および大会全体の雰囲気などは、どなたかが生き生きとまとめてくれるだろうことを期待する。

2 今大会の4つの感想

 まず第1に、この大会のなかで本学会が多様な立場からの議論、重層的な議論ができる学会であることが示されたことである。特に理念だけの議論であったり、現実的な対応や技術的な問題の議論に終始するというのではなく、この両者にまたがって議論ができるということは重要な特徴であるといえる。理念だけの議論では、現実をふまえずに何でもいえることになるし、現実的な対応や技術的な議論だけでは大学のあり方を抜きにした活動になってしまうからである。「大学評価」という焦点化はこの両者にまたがった議論を可能にするものであって、大学・高等教育研究にとって大きな意義を持つものであるといえよう。会員は自然科学を含む多様な専門分野の方々からなり、大学評価に関してもすでに様々な経験を持っていて、それらも議論の多様性を保障するものとなっている。
 第2に、しかしながら議論に参加していて大学評価について明確にとらえておくべきことがあると感じた。それは本来の大学を改善し発展させるための大学評価と、政策評価の一環としての大学評価とを区別するということである。現在の文部科学省や中教審の答申では、この両者を意識的に混同させ、本来の大学評価の努力を政策評価としての大学評価に絡め取ろうとしている。このことをはっきりととらえることが重要であると思う。われわれの大学評価はあくまでも大学の発展のための評価であるべきであり、文部科学省の政策がどこまで達成できたかをみるための、政策評価としての大学評価は否定はしないが、本来の大学評価にとってはあくまでも付随的なものであるというべきであろう。政策評価としての大学評価は、競争的資金の配分のための評価や国立大学法人の独立行政法人としての評価のように、政府の政策遂行のための手段であり、今日の大学政策のもとでは大学を大変にゆがめるものであるといわなければならない。
 これと関連して第3に、大学側の大学評価への取組は受け身になってはいけないということを強調したい。受け身になるということは評価基準に無批判的に追随することになり、政策評価としての大学評価に陥ることになる。自主的な大学評価とは自らの大学をよくしていくために行う評価であり、それぞれの大学で自分たちがこれまで行ってきた成果をはっきりとらえ、自信を持って社会に訴えていく必要がある。どの大学もこれまで卒業生を送り出し、新しい学生を受け入れてきたのである。すでにこの点に社会の支持が示されている。
 日本経団連は日本の大学について様々な批判や注文を出しているが、注意すべきことはだからといって日本の大学の卒業生は採用しないということを決していわないという事実である。これは日本の大学の卒業生は産業界にとって役に立っていることを意味することに他ならない。
 また昨今、第3者評価がいわれているが、その実は第3者評価は自己評価をもとに行われるのである。自己評価で自分の大学のいいところを自信を持って明らかにしなければ、どんなすぐれた第3者評価でもいいところを見つけてくれるわけではないのである。 これらの単純な真理をはっきりとらえることが第3者評価を成功させるために重要である。大学評価は、本来その大学の教職員、学生のための評価なのである。
 第4に、大学評価における微分と積分ということをのべたい。大学の理念の検討は、その理念によって大学の個々の活動が実際どう展開されることになるかにまで具体化して見なければならない。また日常的な様々な業務や活動は、それを発展させていった時にその総和としてどのような大学を実現させていくことになるかを考えながら進める必要がある。つまり、大学評価は巨視的な視点と微視的な視点を常に行き来させながら、評価していくことが重要であるということである。
 今大会でそれができることが示されたことは本学会のすばらしい点であり、大学問題を取り上げる学会として成功できる基本的条件があることを意味するものといえる。

3 今後の研究のために

 今日の大学問題をとらえる上で、2、3の問題について明確にしておくべきことがある。
 その一つは「大競争の時代」というとらえ方である。そうだとすると大学はだれと競争しているのか。互いに他の大学と競争しているというのか。多くの大学にとってはそのような競争は虚構である。大学は学生が入学すればつぶれないのだ。大学というものはまさにそのように制度設計ができている。
 実際につぶれた大学がいくつかあることは確かであるが、それらの大学を調べてみるとそのほとんどが理事者の不正や怠慢によるものであり、いわば背任ないしは無能力の結果である。普通に経営を行っていればつぶれないのだ。今日必要なことはセーフティ・ネット、すなわちつぶれた時の学生の受け皿を考えることではなく、つぶれる前に理事会の不正を社会的に糺す手段を確立することである。労働組合がある場合は経営の不正に対して訴えを起こすことは今日でも可能である。しかし学生や父母の場合は当事者能力がないとして裁判に訴えても退けられている。せめて株式会社の株主訴訟と同じ程度の権利が認められるべきであろう。
 現在ある大学はそれぞれ個性的な存在としてユニークであり、それぞれの形で日本の社会や地域に貢献しているのである。世界的な研究拠点ということがいわれているが、他の大学で行っていない教育や研究を行っているのであれば、その大学は世界的なレベルに達しているというべきである。大学は何も他の大学をけ落とす必要はない。
 第2に、大競争の時代という宣伝とセットになって、少子化や2007年に大学全入になり、大学が学生を選ぶ時代から学生が大学を選ぶ時代になるということがいわれ、大学がつぶれる時代になったと強力な宣伝がされている。しかし大学全入というとき、意識的に、あるいは全くの受け売りのために、ほとんどふれられないことがある。それは中教審の今回の答申では日本の進学率は51%程度にとどまるということが大前提にあることである。10年前の大学審の答申ではそれでも62%程度を想定していたのが、今回10%も引き下げられた。これは政府がそれ以上進学率をあげさせないという意思表示であるといわなければならない。
 しかし日本の社会、とりわけ経済は、そのような進学率で将来の発展を期待することはできないだろう。日本資本主義の立場に立ってもこのような政策は重大な問題を持っているといわなければならない。今日の日本の経済構造は知識集約型の産業にますます移行しており、そのために高度な教育を受けた技術者、研究者がますます多数求められるからである。しかし財界はそのような専門的能力を持ったものは20%程度いればよいとして、大学教育の普及と高度化に抵抗を示している。それでは自らの足下に墓穴を掘ることになろう。これでは日本国内の産業の空洞化はますます進み、発展途上国を含めた新興国の技術力、経済力がますます発展して、日本の国際的競争力が低下していくことは明らかである。
 大学教育の受益者として教育を受けた学生本人があげられることは否定すべきではない。しかしそれ以上に、卒業生を受け入れる企業が大きな利益を受けている。また多くの人が大学を卒業することは社会的安定をもたらすことであり、社会発展の原動力を高めることを意味する。わたしは大学に行かない人が劣っているといいたいのではない。しかし現代の社会では大学教育を受けることによってできるようになることが非常に多いのであり、そのような教育を受けた人なしには今日の社会や地球が抱えている問題を解決できないのである。
 日本のような経済力を持った国では、大学教育を制限せずに発展させていくことが、自国のためになるだけでなく、国際的貢献ともなる国際的責務であるといえる。そもそも日本社会の中での大学進学要求は高い。それは少なくとも80%以上の若者が望んでいる。このような進学を実現するには経済的支援が不可欠であり、国際的な共通理解のように無償化をめざす必要がある。それが実現できれば日本の国民、市民は大きな能力を発揮するだろう。
 受益者負担主義と関連して教育投資論がいわれることで大学に行った人は得をしていると思われているが、それは大学教育費の受益者負担主義を支持する社会の認識の基礎をなしている。このことは高校までの私学助成署名が毎年2000万前後集められるのにたいして、私立大学の国庫助成署名はその1割にも達しないことにも現れている。したがって受益者負担主義とともに教育投資論を克服することが重要な課題となる。
 実際に大学に子どもを入学させている親の意識としては、今や大学教育を受けさせることによって大きなリターンを期待するというものではない。それはむしろ大学教育を受けさせなければ「普通の」生活を保障させることはできないという、せっぱ詰まった思いがある。今日の社会の水準から見る時、数十年前の親の時代とは異なって大学教育を受けることが当然の前提となっている。この点だけでも教育投資論はすでになりたたなくなっている。こうした受益者負担主義と教育投資論についての学術的研究と批判は本学会の重要な課題の一つとなろう。 第3に、シンポジウムで、文部科学省の大学評価政策が揺れているのかどうかの問題が出されたが、基本的に揺れていないというべきである。自己評価、相互評価、第3者評価、認証評価と次々に新しく展開しているように見えるが、その実、大学の実状、内部の情報の公開を徹底して行わせるような段取りが次々と採られ、確実に、全面的な情報公開が追求されているのである。
 情報公開はだれのために行っているか。マスコミや受験生の関心に応えることはその一部にすぎない。今、もっとも熱心に大学情報を集め分析しているのは、財界のシンクタンクや予備校を含む情報産業とコンサルタント会社なのである。これらは、情報提供を自らの業務とするほか、大学の業務の中で事業化できるものは何かを熱心に探求している。すでに大学自身でもアウトソーシングの会社を作っているほどである。また大学の持つ特許の産業への技術移転を進めるTLOについては、行政も関わって熱心に推進している。しかしこれが本当に事業として成功するかどうかは保証の限りではない。そもそも日本の大学はアメリカの大学と違ってそのような事業を進めるようにはできていないというべきだろう。
 産業界がもう一つ注目しているのは財務情報である。財務情報の分析によって大学財政の中で利益として抽出できるところがどこにあるかを探し求めているのである。このため私学会計規準の改訂を求めているのでる。しかし大学という公的機関を営利の対象にすることが許されるべきだろうか。これができるならば株式会社による大学運営や学校債が事業として成り立つからである。
 この学会ではこうした問題についても実証的な学術的研究を進めていくことが求められるだろう。
 なお、第2分科会では認証評価機関が複数あるという点が問題になったが、大学という思想、学問の自由に関わる問題の評価機関は選択できる条件を保障することが重要なのであり、この意味で複数の評価機関の存在は不可欠であるということを積極的に主張する必要がある。


投稿者 管理者 : 2005年05月21日 00:50

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