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2005年08月05日

判決まであと1ヶ月、原告からの報告「鹿児島国際大学懲戒解雇事件について」

津曲学園懲戒解雇事件について

三人を代表して:馬頭忠治 
 

はじめに
 だれもが震撼した事件だった。それは、教員採用(2000年度)にあたり、菱山泉元鹿児島国際大学学長(現津曲学園理事長)は、教授会が採択した採用候補者に一方的に不採用の通知を出し、強引に決着を図ったからであり、さらには、津曲学園理事会は、この件に関し、情実人事、虚偽記載などの不正があったとして、懲戒解雇という学者生命を奪う非情な処分を科し、一気に終息させようとしたからである。

 教員選考に当たった委員のうち、委員長(田尻)と副査(馬頭)を懲戒解雇に、他の一般委員2名を減給処分に付し、そして、候補者を1名に絞るまで委員会に参加していた1名の委員と主査には処分は一切ないというものだった。さらに、この時、教授会の議長であった学部長(八尾)に対しても、「教授会審議を誤った結論に導いた」とし、また大学経営への介入行動もあったなど別の理由を挙げ、懲戒解雇とした。しかしながら、一体、不正となるどんな事実があったというのか。事実がなければ、それは冤罪となる。思い違いであったでは済まされない。結審を終えた今、この「懲戒解雇」とは何であったのか、考えたい。

1.突然の懲戒解雇
 2002年3月末、私たち3人に、「処分通知書」が突然、配達証明で送られてきた。そこには「懲戒退職」に処し、「今後許可なくして大学構内・津曲学園施設内に立ち入ることを禁止する」とあった。同時に、全教職員に対しても「告知」文書が送付されていた。この「告知」には、3教授に構内など立ち入りを禁止してあるので、「教職員各位におかれましても、その点充分に承知のうえ、各自適切に対応されるよう申し添えします」と記されてあった。理事会は、私たちを犯罪者のごとく扱い、放逐して、教職員や学生との接触すら断とうとしたのであった。何故、こんなことまでされるのか、その執拗なまでのやり口に屈辱を覚え、悪意さえ感じた。

 しかも、すでに学生は受講登録を済ませ、開講を待つばかりであった。4年のゼミ生はこれまでの調査を踏まえ卒論にまとめていく手はずであった。この突然の処分は、学生のことをまったく無視した無責任極まりないもので、この意味からも到底、冷静な処分だとは思えなかった。

 さらに、この「懲戒解雇」は、教授会や大学評議会が審議した上でのことではない。理事会が一方的に下したものであった。しかも、委員会運営や学問的評価に関して、である。また、私たちは、何ら指弾されるようなやましいことがないからこそ理事会の事情聴取に快諾し、聴かれたことに率直に事実をもって説明してきた。したがって、この処分は余りに唐突で信じられるものではなった。

2.裁判の経過
 私たちにできることは、司法の場で、事実を明らかにしていくことだけであった。2002年4月5日、地位保全の仮処分を鹿児島地裁に申請した。裁判は、長引いた。2002年9月30日にやっと解雇は無効との地裁の決定が出て、仮処分が認められた。ところが、この決定の後、理事会は10月25日づけで「予備的解雇」を通告してきた。これは、懲戒解雇が無効であっても普通解雇するというもので、地裁の決定を尊重するどころか、何がなんでも解雇するというものだった。

 私たちは、11月19日、やむを得ず「解雇無効、地位確認」を求めて、本訴に入った。これに対し、理事会は、まず12月25日に、仮処分決定に対する異議申し立て裁判を起こした。さらに、驚くことに、八尾が投稿した新聞記事に「鹿児島国際大学教授」という肩書きを使用したことを捉え、それが名誉毀損にあたるとし、損害賠償の裁判を起こした(2003年の4月)。やがて1年が経過し、私たちは、2003年10月に、新たな仮処分を地裁に申請せざるを得なくなった。その後、理事会は、2004年3月に先の異議申し立てが却下されると今度は高裁に保全抗告した(後、自ら取り下げた)。そして、2度目の賃金の仮処分が決定し、解雇は無効との判断が再び出た。それは2004年の8月のことであった。このとき、理事会はすぐさま賃金支払いに応ぜず、私たちは、差し押さえの申請を裁判所に提出せざるを得なかった。そして、解雇されてから3年が過ぎた2005年の5月17日に、やっと結審し、判決言い渡しが8月30日と決まった。長かった。

3.問われていること、問いたいこと
 見ての通り、懲戒解雇に当たる事実がないとの地裁の判断が示されても、理事会は、懲戒処分を撤回するどころではなかった。裁判の長期化は、決して大学の利益になることはないし、大阪・京都から出張してくる2名の弁護士費用も相当なものになろう。それとも、学生の納付金や私学助成金を使って裁判を続けるだけの何か確かな別の理由でもあるというのか。ともあれ、裁判所の決定に誠実に応えるのが最低限の務めであるはずである。しかし、大学のホームページですら、この決定を紹介しコメントすることもなく、いわば無視して不正との主張を掲げるだけであった。これでは、理事らは大学を私物化していると非難されてもいたしかたないであろう。

 ところで、理事会が提出した裁判資料から実に驚くべき多くの事実が白日のもとになった。なかでも、にわかには信じられなかったが、主査だけが他の委員と全く異なることを理事らに証言していたのである。もちろん、委員会では意見の違いや議論はあったが、主査も含めて委員の全員一致でこの候補者に面接することを決め、さらに面接後の票決により教授会に推薦することになったことは、覆しようのない事実である。ところが、主査は、はじめからこの候補者は公募した2科目とも科目不適格であり反対していたとか、さらに、委員らは、共謀し、主査のこの主張を無視したとか、また副査との交代を迫るなど委員会運営が異常であったなどととんでもないことを事ありげに語っていたのである。もちろん、それが事実無根であるということでは、主査以外の委員は皆、同じくしており、そのように理事会の調査委員会でも明言している。

 何のことはない。理事会は、この主査のみの言質によって懲戒処分していたのである。そんなことがあっていいのかと愕然とするばかりであった。また、主査は、処分決定の直前に「釈明書」なるものすら理事らに提出し、こともあろうに私が研究者としての能力に欠くなどと個人攻撃までやってのけていたのである。その上、そんなことすら平気できる主査に、菱山元学長は賛辞を惜しまず「余人をもって代えがたい」とわざわざ理事会の調査委員会で高く持ち上げるばかりである。その発言録を見てわが目を疑った。

 こうした事実があって、本訴は、主査の言辞を質すことが焦点となった。彼の本人尋問では、彼の信じがたい研究業績のつくり方を示し資質を問い、証言能力を問題にした。そして、最終準備書面では、この主査の次のような言説、すなわち、他の委員に悟られないように「きちっと証拠固めをするのが先だ」と思ったとか、さらに「得策でない」、「証拠固め」、「敵対的な行動」(乙27・大学問題調査委員会議事録19頁)等という不穏当で不適切な発言を取り上げ、選考委員会とは主査にとって一体、何だったのだろうかと、根底からの疑問を投げかけるにいたったのである。

 その他、主査とその他6名の「上申書」に何が記載されているのか、また、理事会の調査委員会の外部委員で、菱山元学長や伊東光晴理事と同僚で親密な関係にある元京都大学教授が専門家であるとしてどんな発言をしていたのかなど、是非、紹介し訴えたいことがあるが、別の機会に譲りたい。ともあれ、問われていることは、この教員の選考委員会の運営に関し、そこに懲戒解雇に相当する不正となる事実があったかどうかであり、そのことを立証する責任が、懲戒解雇した津曲学園理事会にあるということである。どう見ても、そんな不正な事実など無く、さきに見たように、主査らが、放言しているだけのことである。私たちも、主査がどうして選考委員会での票決から突然、豹変し、「経営学のなかの労使関係論」などと新たに言い始めたのか、さらに「上申書」や「釈明書」まで出すにいたったのか、その本当の理由を知りたいと思っている。ともあれ、いまは、裁判所の判決を待ちたい。

2005年7月14日

投稿者 管理者 : 2005年08月05日 01:14

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