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2006年03月20日

新潟大学学長選考問題、大学教職員の意向投票の結果を無視した学長選考の違法性

■「意見広告の会」ニュース334より
∟●新潟大学学長選考問題 前回続き・冒頭再掲

大学教職員の意向投票の結果を無視した学長選考の違法性

2005年12月20日・2006年1月15日 山下威士

1 はじめにー逆転また逆転の学長選考過程

 12月7日(26面)の新潟日報を開いて驚いた。「学長に長谷川氏再任 2次投票2位 選考会議で逆転」という大見出しが目に飛びこんできた。後の報道(新潟日報12月16日29面)と併せると、学長選考会議(以下、選考会議)10名の委員の投票において、教職員の行った第二次意向投票で第2位の長谷川彰・現学長が、7票を獲得し、第二次意向投票で、教職員の投票の53%をとって第一位となった山本正治・医学部長の3票を破って、まさに大逆転で、次期学長候補者に決定されたという。

  11月30日の第二次意向投票結果
有権者 1,140名 投票率 72% 1位 山本  443票(53%) 2位 長谷川 360票
  11月7日の第一次意向投票結果
有権者 1,632名 投票率 58% 1位 長谷川 516票(54%) 2位  山本 394票
(第一次と第二次の有権者の数の大きな違いは、職員を含むか否かによる。)

 この間、私は、大学院実務法学研究科長・評議員という立場にありながら、今回の選挙にまったく関係なく、投票に行くだけで、結果を見てビックリするという、大方の一般教職員と同じ状況にあった。ただ、毎回の意向投票の結果については、そういうこともあろうかと思うだけであったが、選考会議の結果は、まったく受け入れがたい。

2 選考規定の内容

(1) いずこの国立大学法人も、2004年4月以降、国立大学法人法12条によって、常置の学長選考会議をおくことになった。新潟大学学長選考会議規則(2004年4月1日議長裁定)では、この選考会議は、①経営評議会の学外委員から選出される5名の委員、②教育研究評議会(以下、評議会)より選出される5名の委員、③学長により理事の内から指名される3名の委員の、合計13名の委員より構成される(3条)。この選考会議が、「第二次意向投票の結果を参考にして学長候補者を決定する」(学長選考規則14条1項、2005年8月5日議長裁定)。

(2)<規定の不備> 私としては、あまりに遅ればせであったが、今回、このような事態が発生してから、この選考会議規則や、選考規則、同実施細則(2005年8月5日議長裁定)を精査して、驚く。よくこれほどに不備のもので、選挙を実行し、学長候補者を選考できたものである。現実に選挙を実行できたのも、おそらくは、従来の、長年にわたる大学の慣行において形成され、蓄積された経験と伝統にもとづいてのことであろう。以下、思いつく点だけをあげてみよう。

①<決め方―コンクラーベ方式> 学長候補者の決め方ひとつとっても、選考会議の「出席委員の3分の2の多数決で決定する」(選考規則6条2項)とあるのみで、それ以外の規定がまったくない。これでは、「法王選出流のコンクラーベ方式」となり、ヘタをすると、いつまでも決まらない可能性がある。3分の2の多数をとる候補者が居ない限り、無限にやるしかない。やっていけないということはないが、いつまでやるつもりであったのであろうか。翻って考えれば、このような規定は、「第二次意向投票の結果」を尊重するという前提があってはじめて運用可能な規定であることをも示している。通常の選挙規定なら、例えば、①3分の2の多数を求める投票を2,3回やって、②その次の投票は、過半数に要件を緩め、③さらに、それでもだめな場合には、その次の投票の要件を相対多数にし、④さらに同数の場合には、議長が決める、あるいは、くじで決める等の手続き的な補充規定があるはずである。

②<理事委員の存在> この選考会議には、上記のように、理事から選出される委員が3名参加する。国立大学法人法12条3項にもとづき、会議規則3条3号で定められたものである。現職が再選されるのに有利な構成であり、それ自体は、違法ではないが、これで、フエアーな、選考を期待できるのだろうか。

③<投票の有効な成立> 意向投票の有効な成立のための要件が、一切ない。「参考」ということばに引きずられて、どうでもいいと考えたためであろうか。ということは、わずかな数でも、投票は有効に成立するということである。通常は、あまりに低い投票率では、投票としての意味をなさず、有権者の意向とみなさないというのが常識的であるが、この点も見逃された。

④<学内委員の不補充> 上記のように、いわば学内代表として、評議会から5人の選考会議委員が選出される(選考規則12条2項、14条2項)。その委員が、学長候補者になった場合、当然、選考会議から外れるが、その補充規定がない。したがって、このような場合、選考会議の構成員の総数が、減少する。通常は、評議会で、順位をつけて当該委員の補充候補を推薦しておき、上記事由で委員を外れるのに応じて、委員を補充するものである。学長選考において、まさに普通に起こりうる事態を想定しないで、条文を作るのは、何かの魂胆があるとしか思えない。

<実際に起きたこと> 今回、実際に、このような事例が起きた。評議会選出委員の5人の内、実に4人が第一次意向投票の候補者になった。学内における最高の審議機関である評議会を構成する者は、各部局を代表して、大学全般の問題の審議にかかわる、それ相応の人物が一堂に会しているのであるから、これは、当然のことである。これ以外の候補者は、前学長と現学長であり、したがって、当初の第一次意向投票の候補者は、総数6名であった。このままだと、選考会議の構成員は、学外委員5人、理事委員3人、それに評議会選出委員の残り1名、合計で9名となりかねなかった。もし、こうなると、理事委員3名は、自己の反対する候補者の選出を阻止するためには、自分たち以外に、1名を説得できればいい。このような状況下では、理事委員の意向に反する候補者は、まず、選出されないであろう。
 実際には、評議会選出委員の内、2人が第一次意向投票の前に候補者たることの辞退を表明し、そのために委員から外れずに、そのまま選考会議に委員として残った。ところが、第二次意向投票の前に、候補者とされた、いま1人の評議会選出委員が、第二次意向投票からの辞退を表明した。にもかかわらず、なぜか、選考会議は、同人の辞退を認めず、第二次意向投票以後の審議においても、選考規則14条2項を適用して、選考会議委員から、そのまま同人を外して審議を行った。辞退の意思の表明は、第二次意向投票の事前であり、事務手続き上は、何ら問題はなかったにもかかわらず、辞退を認めなかったのである。しかし、組合の情報(所信表明)などを通じて、同人の辞退の意思は、大学構成員に知れ渡っており、同人の得票は、第一次意向投票に比べて、著しく減少した。にもかかわらず、辞退を表明した同人に投じられた票もあった(第一次意向投票108票―第二次意向投票22票)。この辞退を表明したにもかかわらず、同人に投じられた票が、いずれの候補者に有利になり,不利になったのかは、私は知らない。この結果、13名の選考会議委員中、2名が候補者となり、1名が病気欠席のために構成員から外されて、これらを除いて10名で、選考会議が運営された、その法定の3分の2の多数は、7名である。結果的には、まさに実際に、7対3で決まった(新潟日報12月16日)。ギリギリであり、「もし」という話であるが、この第二次意向投票の前に辞退の意を表明した上記の評議会選出委員が、候補者としての辞退を認められて、委員から外れずに、この選考会議に参加して、3名のものの支持した候補者に、自己の一票を加えていれば、このように簡単には決着がつかなかったかもしれない。上記の「コンクラーベ」状況の出現である。もちろん、同人が、7名の支持した方に、自己の票を加えたかもしれないから、これは、あくまでも、「もし」という話にすぎないが。これは、学長候補者の選挙からの辞退について、そのやり方、許容期間を定めるということを怠ったために生じたことである。このような規定の不備は、通常選挙であれば、明らかな選挙無効ともなりうる手続き違反にも匹敵するものである。


3 今回の選考の違法性

(1)<「参考」にされるべきもの>
 現行の学長選考規則14条1項は、「第二次意向投票の結果を参考にして、学長候補者を決定」するとしている。ということは、「投票」以外の「参考」されるべきものは、どこにも規定されていない。参考とされるものが、たったひとつしかないのであるから、規定上は、それで、決まるとしか考えられない。もちろん、条文のどこにも「等」などという便利なものも挿入されていない。

<参考にされたもの:総務部長文書>
 ところが、12月7日付けで全教職員に配布された総務部長文書は、「4 選考結果」として、次のように記載する。「学長選考会議における学長候補者の選考にあたっては、意向投票の結果および所信調書を参考にするとともに、中期目標・中期計画の進行状況等大学経営に関する様々な観点から、最適任者について慎重に審議のうえ、票決により長谷川彰氏を次期学長候補者として決定した。」
まったく同文が、新潟大学ホームページにも掲載されている。この方の文責は、広報委員会であろうか、理事(広報担当)であろうか、あるいは、学長か。下記のように、「混乱を招くから一切公表しない」と、今回の学長選考の最高責任者であるはずの選考会議議長によってされたにもかかわらず、「選考結果」という表題の下に、このような情報が、全教職員に、選考会議議長名でもなく、学長名でもなく、理事(事務担当、旧事務局長)でもなく、一事務官の名前で配布された。この文書が、いかなる命令系統の下で出されたのかは、まったく知るよしもないが、現状では、明らかな守秘義務違反であろう。
しかし、そのこと自体の責任もともかく、その内容が、問題である。ここでは、現行の学長選考規則にはない「中期計画・中期目標」などを参照して、学長候補者が選出されたと書かれている。明らかに規定違反である。この文章を書いた総務部長が、勝手にそう思ったのなら、それは、それだけのことであろう。しかし、かれがそう思うには、それなりの根拠があるとすれば、すなわち、あるいは、本当に、選考会議で、このようなことが考慮され、それが、公式に承認されたとなれば、明白な規定違反となろう。

<規定されるということの意味>
 再言するが、学長選考会議で「参考」されるべきものは、現行規定上、「第二次意向投票の結果」のみである。それ以外のものを「参考」にするのは、規定違反である。たとえ、百歩退いて、「第二次意向投票の結果」以外のものを「参考」にすることを認めるとしても、それらと、「第二次意向投票の結果」とを同列において「参考」にすることを、現行規定は許していない。
 たしかに、条文解釈において、その条文を支える社会的良識というものが、広く意識されるべきである。しかし、そのことによって、条文上明記された事項と、それを支える良識のような事項とは、同一の重さを持って判断されるべきとはならない。時として、挙証責任を転換させることがあるぐらいの、条文に明文をもって書かれるということの重みを考えるべきである。これは、法解釈のイロハでもある。

<「第二次意向投票の結果」を無視しうる場合>
 したがって、選考会議の決定が、「第二次意向投票の結果」と異なりうるのは、第二次意向投票が、形式的に、あるいは、実質的に、第二次意向投票の名前に値しない場合、すなわち、そのような「意向」の表明の体をなしていない場合のみである。
例えば、形式的には、投票権者を間違えたとか、間違えた投票所を指示したとかの手続き違反のあった場合であろう。第二次意向投票という名に値しない実質的の場合というのは、かなり考えにくいが、例えば、全有権者の10%以下の投票率であったというような、あまりに低い投票率で、実質的に大学構成員の第二次意向投票とみなしがたい場合などがあろう。
<今回の第二次意向投票> このように考えると、今回の第二次意向投票には、有権者の72%の投票率があり、手続き違反も報告されていず、投票は、実質的にも、形式的にも、まったく問題なく成立している。である以上、現行の規定にもとづいては、この「第二次意向投票の結果」を「参考」にする限り、それと異なる結論を会議が決定できるとする解釈を入れる余地はない。

(2)<説明責任の放棄>
 選考会議議長の小林俊一・東京農工大学幹事(元・理化学研究所理事長)氏は、「選考過程を公表した場合に起こる混乱の方が大きいと判断」(学長就任受諾の会見時の談話、新潟日報12月7日)してという理由から、選考会議の審議経過を一切公表せず、したがって、「第二次意向投票の結果」を無視した理由を、まったく述べていない。
これは、まったく良識に反する発言である。通常は,予測しうる混乱を避けるためにこそ、何事か説明をする必要がある。だからこそ、後に総務部長名の文書を全教職員に配布しなければならないと判断され、配布されたのであろう(もちろん、上記のように、それが、「誰の」判断かは、私には、不明だが)。これ自体、まったく「怪しい」ものであり、勘ぐれば、みずから「怪しい」決定と感じているからこその「公表せず」ではないかと邪推されるであろう。公開性と民主性とを根幹としている大学の運営について、あるまじき態度である。ましてや、大学構成員の明確に投票という形で表明された「意向」と異なる結論を出す以上、その説明責任が生じることは、自明である。そのような説明責任を果たさないという手続き上の違反は、あまりにも重大あり、本体の違反をも導きかねない。これは、現在では、(たとえ、国立大学法人に直接の適用がないとしても)行政手続法上の最低限度のルールである。いずれにせよ、以上のように、投票について、形式的・実質的に問題がない限り、この「第二次意向投票の結果」と異なる決定を下すことは、現行規定上、認められず、今回下された決定は、違法というしかない。

(3)<説明されるべきこと>
 上記の説明責任の問題を、いま少し丁寧に語ると、本来説明されるべきであったことは、以下のことがらである。
① 上記の学長選考規則14条1項の文言上では、「参考」にされるべきものは、「第二次意向投票の結果」のみである。とすれば、その「第二次意向投票の結果」以外のものを「参考」にするためには、「この条文には、『第二次意向投票の結果』以外のものを『参考』にしてもよいと書いてある」ということを読みこみ、説明する必要がある。例えば、「条文上、そのどこかに『等』という文句が読み込まれる」とか、「この『第二次意向投票の結果』という項目は、いわゆる例示的列挙であり、『その他のもの』も『参考』にできる」などという法解釈上の説明をする必要がある。もちろん、明確な条文があり、しかも、その条文が「第二次意向投票の結果」としか規定していない以上、いずれの説明も、非常に難しいことではあると思われるが。しかし、いかに困難であるにせよ、このような説明をしない限り,今回の学長選考会議の決定は、みずから定めた学長選考規則に違反する決定となる。
②  ①の説明をした後に、では、「第二次意向投票の結果」以外の、「等」とか、「その他」のものとして「参考」にされうるものは、どんなものがありうるかを説明する必要がある。これについては、上記の12月7日付けの総務部長名文書「次期学長候補者の決定について」に記載されたものが、参考になる。
「4 選考結果 学長選考会議における学長候補者の選考にあたって、意向投票の結果及び所信調書を参考にするとともに、中期目標・中期計画の進行状況等大学経営に関する様様の観点から、最適任者について慎重に審議のうえ(決定した。)」
もちろん、この文書自体の問題性(上記の「説明をしない」とした選考会議議長発言との整合性、あるいは、誰が、これを作ったか等)は、別にしての話である。
③ その上で、「第二次意向投票の結果」と、その「参考」にされた「等」や「その他」のもの(上記②例では、「中期目標・中期計画の進行状況等大学経営に関する様様の観点」)とを比較考量して、後者のものが、規定に明示されている前者のものよりも重いと判断された理由を説明する必要がある。
 このような説明責任を欠いた行為は、その重大な手続き違反の故に、現在の行政手続法の精神から言えば、無効と判断されかねない。

(4)<立法趣旨の立法者による無視:トーナメント制>
 教職員組合系の有志によって説明を求めるのに答えた(答えない?)発言に関連して、小林選考会議議長は、「意向投票は、トーナメント制ではなく、学長を選ぶあらゆる情報の一つとして尊重した」と新聞記者に語っている(新潟日報12月17日)。しかし、これは、上述のように、「第二次意向投票の結果」が、唯一の「参考」にされるべきものであるのに、それを他のものと並べて「一つ」のものに貶めたことによって、逆に言えば、この「第二次意向投票の結果」と「同列に参考にされるべきではない」ものを、同列に考慮したことをうかがわせるものとして、今回の決定の違法性をうかがわせる発言である。
 しかし、それとともに、この発言は、立法者としての意図を、故意に混乱させるものである。なぜなら、この意向投票制度は、明らかに「トーナメント制」を前提に作成されているからである。その理由の第一には、第二次意向投票の有権者は、すべて第一次意向投票の有権者である(70%が重複する)。もちろん、候補者は、別々になるわけではない。ということは、同じ候補者に対して、二度意思を表明するということの意味が、トーナメント制でなくて、何であろうか。理由の第二に、第二次意向投票で、学長候補者の決定のために、いとも簡単に「3分の2の多数」を要求していることである。まさか、4,5人の候補者を前にして、「3分の2の多数」が、容易に成立すると、立法時に、立法者が考えることはありえない。明らかに、ここでは、第二次意向投票の対象者は、2名、多くとも3名を前提にしている。ということは、トーナメント制で選抜されてくることを予想している。第三の理由に、このような意向投票を含む今回の学長選考制度自体が、トーナメント制であった従来の学長選考制度を大幅に前提にしている。だからこそ、このような粗放な条文で、今回の選挙も、まったく問題なく実行できたのである。そう理解すれば、この意向投票制度も、従来の選挙と同様にトーナメント制を前提にするものと考えざるをえない。
 客観的に見る限り、立法者意思は、今回の選挙制度を、トーナメント制としている。上記の選考会議議長の発言は、「大学の学長という研究者の長を選ぶのだから、トーナメント制などという低次元のものではなく、広い視野から選んだ」と言いたいのであろう。しかし、その発言自体が、明らかに、自己の作成した規定の立法趣旨を無視するものとなっている。その意味では、上記発言は、明らかに「ためにする発言」であり、何はともあれ、「私が、ルールだ。私が語ることが、正しい」とする、すなわち、「私が神だ」と語るにも等しく、みずからの立法趣旨を誤解させるものといわざるを得ない。

4 おわりにーどこでも起こりうること

 このような異常な事態は、今後、ひとり新潟大学に止まらないであろう。
<滋賀医科大学の事例>
 すでに、滋賀医科大学で同様の事例が生じており、そこでは訴訟にまでなっている(毎日新聞・滋賀版 2005年4月2日付「学長選考「任命は違法」と提訴 野田教授ら、取り消しなどを求める」)。新潟大学とまったく同じ例で、前の学長が、教職員の投票で2位となりながらも、学長選考会議の決定で、学長候補者に推薦されたものである。訴訟は、教職員の投票で1位になった教授が、起こしたものである。

<とりうる訴訟形態>
 ただし、ここで、当該教授が、「地位保全の訴え」を提起したことには、疑問がある、簡単には、同教授は、未だ保全すべき学長の地位についていないからである。同教授は、ここでは、「選考会議の決定の無効確認訴訟」を選ぶべきであったろう。もちろん、同教授の「慰謝料請求」には、問題ない。さらに、これが学長の再任以後であれば、「文部科学大臣の学長任命行為という行政処分の取り消し訴訟」を起こすべきであろう。さらに、進んで、「同教授の学長職への任命の義務づけ訴訟」まで起こすと、面白い。

<岡山大学の事例>
 岡山大学でも、まったく同じ事例が、2005年3月に起きた。詳しくは、岡山大学の『組合だより』第86号(2005年5月31日)に譲るが、新潟大学と同じように、教育職員の「意向投票」の結果、第2位となった副学長が、学長選考会議の決定で、第1位になった候補者を退けて次期学長候補者に推薦されたと言うものである。『組合だより』における反応は、それを拝見した限りでの私の印象では、「今回の「意向投票」において過半数をえた者がいなかったから、このような決定もやむを得ない、ただ、経過について説明不足の感があるのも否なめない、今後は、よりよい制度設計をしてゆきたい」というもののようである。

<どこでも起こりうること>
 この滋賀医科大学、岡山大学や新潟大学の事例をみれば明らかなように、このような事例は、国立大学法人法の下では、どこでも起こりうることである。
このような規定の運用は、「社員が社長を選ぶ会社がどこにある」という俗説を、大学に強引に当てはめるとするところから生じたものであろう。これは、「大学は、会社ではない」という団体の存立目的ひとつ理解しようとしない俗説である。たとえ、そのような俗説を当てはめるにしても、それでも、会社の場合には、役員会が社長を任意に選出しても、そこには、「株主」、「株主総会」という歯止めがある。しかし、大学には、そのようなものがない以上、会社以上に、コンプライアンスとか、みずからの良識への厳しい自律、最低限でも、自己の作った法令を遵守するという程度の意識を必要とする。おそらく、戦後60年がたち、それを根底から支えた日本国憲法が改正に直面しているのに象徴的に表現されているように、大学そのものも、いま歴史の大きな曲がり角にあるであろう。しかし、私は、せめてその車輪を、私たちのところで、止めたい、せめて回転を遅らせたいと思う。

<風通しのいい組織のために>
 独立行政法人化の前であろうと、後であろうと、大学の存立理由が、自由で創造性溢れた教育と研究とを行うための仕組みであることには、まったく変わりはない。その自由で創造性溢れた組織であるための基礎的な条件は、何よりもその組織が、風通しのよい組織であることである。その風通しのよい組織であるための前提は、その組織が、民主性と透明性の確保された組織であることにある。今回の新潟大学の学長選考過程では、その民主性と透明性とのふたつんながらに無視されたのである。しかも、このような行動は、滋賀医科大学、岡山大学の事例にも見られるように、ひとり新潟大学に特有のものではない。まさに、今回の事例は、わが国の大学制度一般に通じる問題性をはらむものである。

<学内の努力>
 制度的には、今回の大学教職員の意向を無視する決定の撤回を求め、個人的には、現学長の次期学長候補者への推薦受諾を撤回することを求めて、教員組合系有志(12月13日)、法科大学院系有志(12月15日)、現代社会文化研究科系有志(12月16日)のアッピール、さらには、教育人間科学部教授会(12月12日)や人文社会・教育科学系教授会議(12月21日)の教授会決議などの多くの方面から、教職員のアッピールが出されている。私自身も、評議会(12月17日)において、学長の大学への良識を信じて、候補者推薦の辞退を迫ってみた。

<京大事件の教訓>
 さらには、何人かの評議員である部局長とともに、このような各方面からの教員や私どもの要望に反して、この学長候補者への推薦を辞退されない学長への抗議の意思をしめすために、連袂して辞任を行った(2006年1月13日)。かの1933年の京大事件の佐々木惣一、末川博、恒藤恭などの大先達の行動には及ぶべくもないが、かれら大先達の守り通してきた大学の自治のためにも、できるだけのことは行いたいと思う。私には、大学の自治をめぐる歴史の歯車が、かの事件以来70年をへて、いままたひとつ方向を転じようとしているように思われる。

以上


投稿者 管理者 : 2006年03月20日 00:20

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