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2006年09月24日

日の丸・君が代予防訴訟難波判決の読みとり方

教育基本法「改正」情報センター
 ∟●センター論説 日の丸・君が代予防訴訟難波判決の読みとり方

日の丸・君が代予防訴訟難波判決の読みとり方

2006年9月22日
I・S論説員
(教育基本法「改正」情報センター)

1 難波判決の教育裁判としての意義――杉本判決と並ぶ歴史的判決

 東京地裁難波判決は、教育裁判の歴史の中では、教育憲法裁判として教科書検定違憲を断じ、学習権、国民の教育権を市民に広めた教科書裁判杉本判決に匹敵し、あるいは、当時と比べても厳しさを増している司法状況・立法状況の中では、杉本判決をも越える歴史的な意義を有する画期的判決といえる。その意義は、第1に、日の丸・君が代の暴力的強制だけではなく、自由にものも言えない、職員会議での採決さえ禁じられた東京の教育、まさに教育基本法改正を先取りする上意下達の行政ヒエラルヒー化した東京の学校状況を、教育行政による教育の「不当な支配」に該当し違法と判示することによって、教育の自由のぎりぎりの歯止めとしての教育基本法10条の法効果を示したことである。第2に、教育の場における一人一人の良心の判断にもとづく最小限の拒否行動を、思想・良心の自由の範囲に取り込むことによって、思想・良心の自由を空文化せずに、活きた市民的自由に再構成したことである。第3に、1976年の最高裁学テ判決以降、教育行政施策追認の傾向があらわであった自主性擁護的教育裁判において、改めて最高裁学テ判決の判例法理に真正面から向き合い、その教育への権力的介入への抑制法理を極めて厳密に東京の教育行政施策に適用し、違憲・違法の判断を導いたことである。このことは、恣意的な引用で最高裁学テ判決の判旨を逆転した上で、教基法10条改正(政府案16条)の根拠としている政府答弁とは対照的で、教育立法・行政における憲法的限界を示す最高裁学テ判決の憲法・教育基本法解釈の積極的意義を明らかにしている。

2 難波判決の法論理――判決の基本ラインは教師の思想・良心の自由と教育の自由の二重的保障

 難波判決は、教師に対する日の丸・君が代強制の違憲判断を、教師に対する思想・良心の自由と教育の自由の二重的保障により根拠づけた。判旨は、教育の場における国旗・国歌強制を、教師の思想・良心の自由と教育の自由が重なり合う場としてとらえ、教師の思想・良心の自由の保障とその制約の限界を画する教育の自由という構成をとっている。

 日の丸・君が代強制を争う一連の裁判では、強制の違憲・違法を主張する教師側には思想・良心の自由論に二つの理論的な壁があった。第1の壁は、思想・良心にもとづく起立・斉唱拒否とピアノ伴奏拒否という消極的不作為が、憲法19条思想・良心の自由の保障範囲であるかという争点にかかわって、内心の自由は絶対的保障を受けるが、外部的行為の規制にすぎない起立斉唱・伴奏命令は思想・良心の自由の侵害にはならないという内心の自由と外部的行為峻別論である。第2の壁は、たとえ一定範囲の外部的行為も思想・良心の自由の保障範囲にあるとしても、公務員教師は、その職務の公共性から思想・良心の自由に内在的制約がかかるので、日の丸・君が代強制は教師の思想・良心の自由侵害にならないし、起立斉唱は教師の職務内容であるという職務の公共性論である。

 判旨は、第1の外部的行為峻別論について、教師の職務命令拒否を宗教上の信仰に準ずる世界観、主義、主張にもとづくものであって、強制は思想・良心に対する制約と解されるとした上で、「人の内心領域の精神的活動は外部的行為と密接な関係を有するものであり、これを切り離して考えることは困難かつ不自然」と斥けた。

 第2の職務の公共性論については、強制が、思想・良心にもとづく外部的行為の公共の福祉による必要かつ最小限度の制約または教職員の地位に基づく制約として許されるかという問題設定で、強制の根拠である学習指導要領国旗・国歌条項、10・23通達、校長職務命令の順でその違憲・違法性を審査する。

(1)指導要領国旗・国歌条項については、国旗・国家教育の内容は定めず、国旗・国歌の取り扱いを学校裁量にゆだねているので、大綱的基準として、「教職員に対し一方的な一定の理論や理念を生徒に教え込むことを強制しないとの解釈の下で認められる」。同条項から、教師の国旗対面起立・国家斉唱義務、ピアノ伴奏義務を導き出すのは困難である。

(2)10・23通達および一連の指導について、国旗・国歌の実施方法、職務命令発令等について校長裁量を認めず強制し、教職員に対しても、職務命令を介しての強制と評価でき、「教育の自主性を侵害するうえ、教職員に対し一方的な一定の理論や観念を生徒に教え込むことを強制することに等しく、教育における機会均等の確保と一定の水準の維持という目的のために必要かつ合理的と認められる大綱的な基準を逸脱している」ので教基法10条1項違反、かつ、国旗・国歌法の立法趣旨違反で、思想・良心の自由の許容される制約範囲を超えた憲法19条違反である。

(3)校長職務命令に対し教職員は原則的に服従義務を負うが、重大かつ明白な瑕疵がある場合には服従義務が否定される。教職員は、一般的な国旗掲揚・国歌斉唱指導義務から、積極的な妨害行為、生徒に対する拒否あおり行為は許されないが、国旗・国歌条項通達による起立斉唱、伴奏義務はなく、むしろ、思想・良心の自由にもとづく拒否の自由を有している。斉唱拒否は、妨害行為でも生徒扇動行為でもなく、国旗・国歌教育の教育目標の阻害のおそれもない。式典でのピアノ伴奏は、音楽授業と異なり必須ではなく、代替手段も可能で、伴奏の可否の事前確認により式典進行の阻害のおそれもない。拒否行為による他者の不快感は、憲法の多元的価値観から、人権の制約自由とはならない。校長職務命令は、必要かつ最小限の制約を越えた憲法19条違反で、重大かつ明白な瑕疵があり、教職員の服従義務はない。服従義務違反を理由とする懲戒処分は裁量権濫用で違法なので、差止め認容。

3 義務不存在確認訴訟(予防訴訟)の抜本的紛争解決機能

 予防訴訟は、第1時から第3次までの提訴が改正前の旧行政事件訴訟法のもとで無名抗告訴訟の義務不存在確認・予防的差止訴訟として行われ、現行行政事件訴訟のもとで行われた第4次訴訟では、新設された3条7項の差止訴訟として提起された。そして、訴訟要件を認められ、かつ、原告勝訴となったおそらくはじめての訴訟の栄誉をになっている。判旨が指摘しているように、「職務命令が違法であった場合に侵害を受ける権利は、思想・良心の自由等の精神的自由権にかかわる権利であるから、権利侵害があった後に、処分取消請求、慰謝料請求等ができるとしても、そもそも事後的救済には馴染みにくい権利であるということができるうえ、入学式、卒業式等の式典が毎年繰り返されることに照らすと、その侵害の程度も看過し難い」し、処分の審査請求・取消請求において、「義務の存否、当該処分の適否について争うことは迂遠というほかなく、より抜本的な紛争解決のためには、上記義務の存否の確認、処分の差止めを求める法律上の利益を認めるのが相当といえる。」教育行政が矢継ぎ早に攻勢をかけ、それに対する消極的抵抗にさえも処分、再処分、研修と追い討ちをかける状態で、すべて事後的に処分を待っての審査請求・出訴では、繰り返しの処分に対する持久戦となり、負担はすべて教師側に蓄積する明らかに教師側に不利な勝負といえる。難波判決は、紛争のすべての発端である通達・職務命令の適法性審査が主戦場となる予防訴訟という訴訟形式の優位性・有用性のみえた判決でもある。


投稿者 管理者 : 2006年09月24日 00:50

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