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2004年07月23日

横浜市大教員組合、恣意的で不公正な大学運営が常態化する危険

横浜市大教員組合「組合ウィークリー」(2004年7月22日)

恣意的で不公正な大学運営が常態化する危険

 8月早々に文科省に学部改組届出等を行う予定で、カリキュラム貼り付け等てんやわんやの作業がすすめられていることはご承知のとおりです。ともかく法人への移行と新学部発足のために、無茶なやり方であれ何であれ強行する現在の大学運営は異常と言うほかありません。
 たとえば後任教員についてすすめられている選考。改革推進本部におかれ、横浜市が指名した教員、職員、学外者からなる教員選考委員会が人事をすすめている現実は、教授会と大学組織が手続きを踏んですすめる人事選考とはちがい、大学のすすめる人事とは言い難いものです。もしも法人化を前提とするというのであれば、「学長の下におかれる」はずの人事委員会が、それなりの手続き、原則を踏まえて選考をすすめることになるはずです。学部改組の届出は現在の学長名で申請されるはずであり、そうだとすれば、この届出にさいしてスタッフとして位置づけられる教員の選考手続きが現行大学組織とまったく無縁にすすめられている現状は、手続き上からしても重大な暇疵があると言わなければなりません。
 現在すすめられているさまざまな改組作業は、教員組合が以前から指摘してきたように、現行大学組織が公的にはいっさい与り知らぬところで進行していることになっています。市と大学が協力して改組をすすめているよう言いつくろっても、改組準備をすすめるすべてのプロジェクトに教員が個人の資格で参加しているのだ、というフィクションが強弁され続けていることからみても、現行大学組織・機関は改組作業とは切り離され、無関係とされています。それでいながら文科省にたいしては現行大学が改組を申請するとみせかけるのは詐欺的行為に等しいものです。
 さらに問題なのは、このような改組準備作業が、法人化以後の大学運営にそのまま持ちこまれかねない、ということです。現行の教員選考組織が「学長の下」にあるとされる人事委員会に衣替えされる可能性はもちろん、大学の構成員に支えられているわけでなく、適正かっ公正な手続きをへてオーソライズされているわけでもない「方針」が組織の方針として指令され、教員がその具体化に動員されるような運営が、そのまま法人運営に持ちこまれるのは確実です。
 雇用条件をめぐる問題は、それでも、労働諸法規の制約下におかれ、当局の思いどおりにできるわけではありません。しかし、行政管理を定款のうえでも都立大以上に徹底させた市大の大学運営は、このままでは、大学と言うに値しない異様なすがたに定着させられることになります。当局の謳う「透明性、公正性、客観性」を、教員人事や大学運営のあり方に徹底させるための運動が急務です。大学の管理運営、教員評価に携わる教職員にたいして、個々人の責任を明確にした説明責任を果たさせなければなりません。

大学改革日誌(永岑三千輝教授)−最新日誌(2004年7月22日(2))より

教員組合ウィークリー(7月22日号)を頂戴した。市立大学が独立行政法人化と学部改組の二つの移行期に直面して、ぶつかっている重大ないくつもの問題が指摘されている。その問題は、学則など評議会における問題と関係ある事項ばかりである。だが、評議会は機能しているか?評議会は報告事項ばかりとなっているが? 評議会は関係ないというのなら、新しいシステムの経営協議会(経営評議会)、教育研究評議会の準備組織は形成されているか?なにもないところで、行政当局(大学改革推進本部)が何もかもやっているということではないか。こうした大学自治(それが育んできた諸規則そその精神)無視のやり方が、新法人の大学で常態化することを危惧するのは、当然である。文中、「行政管理を定款の上でも都立大学以上に徹底させた市大の大学運営」というところが、もっとも印象的である。普通の人々のイメージとは全く違うであろう。だが、実際は?

昨日の評議会の議論では、任期制などの問題は「教務事項ではない」ということで削除することになったようである。だが、それでいいのか?
教員の質の向上といったことが任期制の導入の趣旨ではないのか?
教員の質は教務に関係ないのか?

韓国における任期制も「定年制の弊害」を除去することが目的だという。定年制に安住し仕事をしない、研究教育をきちんとしない、といった問題を克服するための方策として、正当化されようとしている制度ではないのか? その制度は、したがって教務に深く関わってくるのではないか? 

任期制ポストに置かれた教員が、審査の公正さや透明性に疑問を持ち、つぎつぎと転出し、心は外に向かうということは教務事項とは関係ないのか? 審査の公平性や透明性は大学教員がきちんと問題にしなければならないことではないのか。こうしたことは教授会、評議会できちんと審議すべきことではないのか?

安定した身分保障がない教員が堂々と意見を述べることができるか? 意見を述べる自由のないことは、教務とは関係ないのか? いったい教務とは何か? その守備範囲はどこにあるのか?

任期制はたんに経営の問題なのか?
任期制で働く教員の意識・態度に深く関わってくる問題ではないのか? 
その教員の態度は教務にも研究にも深く関わってくるのではないか?
およそ、教務事項と経営事項という風に分けてしまうことが本当に妥当なのか?

国立大学法人において研究教育の長である学長が経営の長も兼ねるということの意味は、まさに研究教育と経営とが表裏のものであり、分離できないということを踏まえたものではないのか?理事長と学長を形式的に分離しても、実質においては融合した関係になければならないということではないか? 地方独立行政法人法(その特別規程としての公立大学法人法)は、定款だけではなく、憲法規定などを踏まえて、適用と運用を考えていくべきものだろう。教務だから評議会・教授会、経営は法人という形式的二分法は、大学と大学経営をいずれも駄目にするものだと危惧される。


投稿者 管理者 : 2004年07月23日 00:17

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