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2005年04月27日

女性は科学の開拓者、慶応義塾大学名誉教授米沢富美子さん

女性は科学の開拓者(1)慶応義塾大学名誉教授米沢富美子さん(人間発見)

日本経済新聞(2005/04/25)

「ロレアル―ユネスコ女性科学賞」受賞
「科学が苦手」は理由なき差別
男性にない忍耐と直観力が強み

  世界物理年のことし、物理学者である慶応義塾大学名誉教授の米沢富美子さん(66)は二〇〇五年度の「ロレアル―ユネスコ女性科学賞」を受けた。米国ハーバード大学のサマーズ学長の「女性は生まれつき科学が苦手」との発言があった。「そんなことはない。女性こそ科学に向いている」という趣旨の受賞スピーチは大きな拍手を呼んだという。
 授賞式は三月三日にパリのユネスコ本部でありました。アフリカ、欧州など各大陸の女性物理学者とともに賞を受けました。
 スピーチでぜひ話そうと思っていたことはサマーズ発言への反論でした。「女性には直観力がある。しかも、妊娠・出産を経験するため忍耐強さをもっている。これらこそ科学にとって不可欠な要素」と言いましたら会場がわっと沸いたのです。そして「良識ある男性は女性だからといって差別しない」と結んだら、また拍手が起こりました。
 経済協力開発機構(OECD)の調査では、日本の女性研究者の割合は〇二年で全研究者のうちの約一〇%。理工系では四%です。ポルトガルでは四〇%を超えポーランドは四〇%近い。また、フランスは三〇%に届こうという割合です。年々増えているとはいえ、日本はまだまだ低い割合なのです。
 しかも、理由のない女性差別が「科学」の世界でもあります。授賞式後の座談会でも「女性研究者の前に立ちはだかる壁は厚い」という声が各国の女性受賞者から出ました。
  九六年に女性として初めて日本物理学会の会長に選ばれた。
 日本物理学会には会員が二万人いますが、そのうち女性は五百人ほどです。会長を選ぶに際してはたくさんの男性が支持してくれたのでしょう。その意味では開かれた学会ですね。
 これからもどんどん女性科学者が出てくるようにしなければなりませんが、男女雇用機会均等法にみられるように制度面では日本は整いつつあります。今後は多くの人にある心のバリアーを無くすことに力をそそぐ必要があります。
  ロレアル―ユネスコ女性科学賞の対象になったのは「アモルファス半導体を含む非結晶物質の研究」である。ルイ十四世が創設したフランス科学アカデミーでも講演した。
 非結晶物質の研究は私のライフワークともいえるものです。女性科学賞の選考委員長はノーベル物理学賞を受けたフランスのドジェンヌ教授で、私の解析的理論とコンピューターシミュレーションを駆使した方法を高く評価してくれたのは大変光栄なことでした。
 科学アカデミーでの講演も心に残ることでした。アインシュタインやパスツールが科学の成果を話したところで、日本女性としては私が初めてと聞きました。
 一六六六年創設の仏科学アカデミーも長く女性科学者に門戸を閉ざしていました。百年ほど前にマリー・キュリーを会員として認めるかどうかが大きな問題になり、結局入れなかったという歴史があります。女性会員を認めたのは一九七八年のことなのです。


女性は科学の開拓者(2)慶応義塾大学名誉教授米沢富美子さん(人間発見)

日本経済新聞(2005/04/26)

お絵かきで母から幾何の“講義”
湯川先生にあこがれ京大の物理に
卒業後すぐ結婚、最愛の夫と35年

  一九三八年(昭和十三年)十月、大阪府吹田市に生まれた。証券会社に勤めていた父、武文さんと、母、敏子さんは職場結婚だったという。地元の公立小学校、中学校、茨木高校を経て京都大学理学部(物理学科)に進んだ。
 父は四五年(昭和二十年)一月に戦死しましたから、母が働いて私を育ててくれました。今年八十七歳になりますが、元気で吹田市で暮らしています。
 母は頭のよい人で高等女学校時代は学年で一番の成績だったといいます。今でも市の公民館で創作折り紙を教えています。折り紙をするには幾何学の素養が必要ですが、母は幾何が得意だったと聞いています。
 母の才能を受け継いでいるのでしょう、私自身も数学が好きでした。論理を積み重ねることによって『解』が得られることに魅力を感じました。そして、母の“教育”もあったのかなと思っています。というのも、小さい時からお絵かきをしていると、その紙の上で幾何の証明を教えてくれました。三角形の内角の和は一八〇度とか。自然に幾何や数学が好きになりました。
 大学では物理学科に進みました。「なぜ数学科ではないの」と言われそうですが、理由は物理学科には日本人初のノーベル賞受賞者である湯川秀樹先生がいらっしゃったことです。講義はわずかでしたが、一言も聞き漏らさないぞ、と思いました。湯川先生は物理学を志すものにとってあこがれでした。私もずいぶんかわいがってもらいました。
  大学ではエスペラント語のクラブに入った。入学してすぐに入部を申し込んだところ「僕が部長の米沢です」とご夫君になるべき人が自己紹介した、と著書『二人で紡いだ物語』(出窓社)に出会いのことを書いている。
 夫の允晴(まさはる)は私より三歳上です。結婚したのは私が大学を終えてすぐの六一年のことです。プロポーズを受けて「結婚か学問か」で悩んでいたところ、夫は「物理と僕の奥さんの両方をとることをなぜ考えないの」と言いました。「目からうろこが落ちる」とはまさにこのこと。ほしいものを二つとも得た、という感じです。
 大手の証券会社に勤めていた夫は、まもなくロンドン支店に転勤になりました。当時は単身赴任しか認められていなかったので、大学院修士課程の一年生であった私は置いてきぼり。しかし、さびしがり屋でしたから、すぐに英国留学を決意しました。と言っても、留学先に当てがあるわけではありません。そこで、手当たり次第に英国の大学長に「奨学金付きの留学」願いを送りました。
 試してみるものですね。二つの大学から返事がきたのです。英国の大学も懐が深いなあ、と思いました。英語には自信があったのですが、英国ではこちらの言っていることがまるで通じない。今思うと、当時の無謀さには冷や汗が出ますね。
  その允晴さんも九六年三月に亡くなった。六十歳の誕生日の翌日だった。
 肝臓がんでした。アルコールに親しんできたことも悪かったのでしょう。九〇年には悪化した部分の切除手術もしました。
 その前の八七年に夫は二十七年間勤めていた会社を辞めました。その一年ほどの後、友人と一緒に日本初のM&A(企業の合併・買収)の会社をつくって、その社長になりました。
 亡くなる前にはその会社も辞め、社員が自分一人の会社をつくりました。何でも相談できる会社です。半ばボランティアの悠々自適の生活を望んでいたのかもしれません。臨終の間際に私の呼びかけにこたえて目をうっすらと開け、手をのばして抱きしめてくれました。三十五年間の結婚生活の最後を飾る思い出です。


[関連ニュース]
女性科学者を顕彰「猿橋賞」に小谷元子・東北大教授(読売新聞4/26)

投稿者 管理者 : 2005年04月27日 01:22

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