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2005年07月22日

横浜市立大、教員の労働時間について

大学改革日誌(永岑三千輝氏)
 ∟●最新日誌(7月21日)

7月21日 教員組合週報(7月20日)を受取った。執行委員選挙関係と「出勤簿」問題に関する重要な情報が掲載されている。

 大学教員の週労働時間(38.5時間だったか39時間だったか)は、教育のための時間(拘束的な学部・大学院の講義演習等で、特に今年は人によっては6コマとか7コマとか、普通でもかなり多めとなっているが)、各種委員会等の時間(拘束的)、そして自由な研究(ないし教育のための準備)に費やす時間がある。講義・演習・会議などは、たくさんの人間が関わってくるという意味で規律が必要であり、一種の大工場的規律で運営される側面(大学における生産工場規律)があるといえよう。

 しかし、大学教員の勤務形態・職務遂行形態においては、大学に出校している場合でも厳密に(大工場的規律的に)規定された講義時間等のみが拘束的なのであって、その他の時間帯は自由に利用して本来的職務の一形態(教育研究のための仕事)に費やしている。逆に、大学外においても自宅であるか図書館・資料館などであるか他大学での研究会であるかなど、その研究のための時間の利用形態(場所・時間帯・土曜日曜の自発的職務遂行、やり方など)は多様である。しかし、大学外にいるからといって職務に専念していないのではない。勤めを欠いているのではない。まさに研究(教育準備)という職務に専念しているのである(そのようにみなして各教員の自律性、自己規律に任せてきたのが慣行であり実態である・・・「みなし原則」が実際にどのように実現されてきたか、これに問題がないとはいえない、最近の改革論議の一つはこの「自由」の利用の仕方をめぐるものである)。

 大学教員の職務専念・職務遂行においては場所や形態に最高度の自由が必要なのである(もちろんそれに伴う責任もある)。大学に出勤したか出勤していないか、ということは決定的な問題ではない。工場的規律、固定的な職場における事務的労働の基準で、「出勤」か「欠勤」か等を区別し、押印の有無と対応させようなどというのは、大学における慣行にも、大学教員の研究教育労働のあり方にも合致しない。少なくとも文科系(実験設備等を使うものは別として、すなわち非実権系)はそうであろう。すくなくとも文科系にとってはその自由度が命だとも言える。

 最近の社会の全体的傾向を見てもわかるが、講義・演習・会議等の拘束的時間以外の自由な時間(自由な形で自主的自律的独立的に職務を遂行する時間)に関しては、その成果を教育の現場においてどのように実現し発揮しているか(たとえばそのひとつの実績評価の素材として学生アンケート)、研究においてどのように実現し発揮しているか(研究実績に関する諸種のデータの公表)、社会的活動においてどう発揮しているか(学会や地域その他に関する活動の実績の公表)、具体的成果こそが問題とされている。勤務・職務の遂行の形態において最大限の自由を保障することと表裏一体となって、その遂行の結果・実績こそが具体的に求められている。こういう実績書類を作ることも、貴重な研究教育のための時間を割いているのである。認印を押す作業とどちらが簡単か? どちらが重要か? 実績書類の作成は、一瞬にして済んでしまう押印に比べれば、何十倍、何百倍、何千倍の時間と精神的緊張を要することだけは確実だろう。それを大学教員は次々と作成するようになっているのである。 

 出勤簿問題は、大学教員の勤務形態の特質の理解とかかわる。

 就業規則問題(勤務時間問題)など未解決の問題に加え、さらに追い討ちをかけるように、軽軽しい形式的処理(画一的事務処理)を押し付けてくる(「欠勤」処理の暗示=脅かし)ことでは、大学教員の仕事にとって本当に重要なことをだめにしてしまう。大学教員に求められる仕事のあり方の無理解は、大学教員の士気を阻喪させる。

 教員組合の筋のとおった主張と対応を期待したい。


投稿者 管理者 : 2005年07月22日 02:00

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