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2005年07月29日

日本学術会議、「現代社会における学問の自由」

■日本学術会議、学術と社会常置委員会報告 
現代社会における学問の自由」
http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-19-t1030-16.pdf

学術と社会常置委員会報告
現代社会における学問の自由


平成17年6月23日
日 本 学 術 会 議
学 術 と 社 会 常 置 委 員 会

日本学術会議 学術と社会常置委員会

 この報告は、第 19 期日本学術会議 学術と社会常置委員会の中の「現代社会における学問の自由分科会」を中心とした審議結果を取りまとめて発表するものである。

委員会メンバー
委員長 森 英樹 (第 2 部会員、名古屋大学理事・副総長)
幹 事 佐藤 学 (第 1 部会員、東京大学大学院教育学研究科研究科長)
幹 事 御園生 誠 (第 5 部会員、独立行政法人製品評価技術基盤機構理事長)
委 員 中西 進 (第 1 部会員、京都市立芸術大学長、国際日本文化研究センター名誉教授、
総合研究大学院大学名誉教授)
委 員 浅倉 むつ子(第 2 部会員、早稲田大学大学院法務研究科教授)
委 員 柴垣 和夫 (第 3 部会員、新潟産業大学教授、東京大学名誉教授、武蔵大学名誉教授)
委 員 武田 隆二 (第 3 部会員、大阪学院大学流通科学部教授、神戸大学名誉教授)
委 員 岡田 守彦 (第 4 部会員、帝京平成大学ヒューマンケア学部教授、筑波大学名誉教授)
委 員 小川 智子 (第 4 部会員、岩手看護短期大学副学長)
委 員 久保田 弘敏(第 5 部会員、東京都立科学技術大学客員教授、東京大学名誉教授)
委 員 江澤 郁子 (第 6 部会員、戸板女子短期大学学長、日本女子大学名誉教授)
委 員 塩見 正衛 (第 6 部会員、放送大学茨城学習センター所長、茨城大学名誉教授)
委 員 鈴木 莊太郎(第 7 部会員、東邦大学医療センター大森病院院長付常勤顧問、産業医)
委 員 角田 文男 (第 7 部会員、岩手医科大学名誉教授)
(現代社会における学問の自由分科会メンバー)
委員長 柴垣 和夫 (第 3 部会員、新潟産業大学教授、東京大学名誉教授、武蔵大学名誉教授)
委 員 中西 進 (第 1 部会員、京都市立芸術大学長、国際日本文化研究センター名誉教授
総合研究大学院大学名誉教授)
委 員 浅倉 むつ子(第 2 部会員、早稲田大学大学院法務研究科教授)
委 員 岡田 守彦 (第 4 部会員、帝京平成大学ヒューマンケア学部教授、筑波大学名誉教授)
委 員 江澤 郁子 (第 6 部会員、戸板女子短期大学学長、日本女子大学名誉教授)
委 員 塩見 正衛 (第 6 部会員、放送大学茨城学習センター所長、茨城大学名誉教授)
委 員 鈴木 莊太郎(第 7 部会員、東邦大学医療センター大森病院院長付常勤顧問、産業医)

要 旨

1 報告書の名称 現代社会における学問の自由
2 報告書の内容
(1) 作成の背景
 「学問の自由」に関する事項は,「科学者の倫理・社会的貢献」に関する事項とともに,もともと学術と社会常置委員会の主要な調査審議事項であるが,第18 期においては,同期学術会議全体の重点課題「日本の計画」並びに「新しい学術体系」の関連事項に審議の重点を置いたため,必ずしも十分な検討を行う余裕がなかった。そこで今期は常置委員会に「現代社会における学問の自由分科会」を設置し,鋭意検討を進めてきた。その結果,現代社会の新しい環境のもとで,学問の自由にかかわる問題はきわめて多面化し複雑化していることが明らかになった。この報告書はこの問題についての包括的かつ最終的結論ではなく,各方面での議論を促すための問題提起的な報告である。

(2) 報告書の要点
 第二次世界大戦以前まで,学問の自由を巡る問題は,主として学問研究を担う場であった大学の自治と諸種の権力や権威との間の緊張関係として存在した。
 この点は,学問の自由が憲法上明記されるに至った今日においても,なお十全に実現しているとはいえず,今後もその保障のための努力が継続される必要がある。しかし戦後半世紀以上経過した今日,学問の自由にかかわる問題は,権力や権威に対する緊張関係を超えて,科学者コミュニティ内部の諸問題にまで広がりをもつに至っている。その背景には,一方におけるそれ自身科学の発展の所産である技術革新のめざましい進展が,他方における社会の大衆社会化と大衆民主主義のいちじるしい進展がある。
 前者は,① いわゆる巨大科学(大規模研究と大型設備研究)を生み出し,そこには基礎研究のほか国策的研究が含まれるところから,プロジェクト決定における科学者の社会的責任が問われるだけでなく,巨大科学とそれ以外の分野との財源配分,巨大科学プロジェクト間の調整と各プロジェクト内部での運営の在り方などについて,科学者コミュニティ内部での「大学の自治」の枠を越えた自治の在り方が問われている。それはまた,② 特に生命科学の分野でのヒトゲノム解読の完成,遺伝子操作・移植技術などの進展に伴い,かつては分けて考えられていた科学の「成果」とその「利用」について,あらためていわゆる「知の限界」,科学そのものの限界を問題とする議論が提起されるに至った。
 さ ら に ③ 従来はかなり明確に区分されていた基礎・応用・開発の諸研究の間の距離が縮まり,あるいはオーバーラップするに至ったことから,産学連携の動きが積極化しているが,そこでは学問(大学)の論理と企業の論理との間に客観的に存在する緊張関係を自覚しつつ,両者の連携が実をあげうる適切なルールの構築が求められている。
 後者の社会の大衆社会化,大衆民主主義の発展との関連では,大学進学率が学齢人口の過半に達し,希望者全員入学を目前にするまでに至った大学の大衆化は,一面では高度知識社会に向けての階梯としてプラスに評価することもできるが,同時に学生の学力の低下によって学部段階での「研究成果の教授」を困難にするとともに,近年の大学増設の影響もあって,大学間の格差をますます拡大する結果をつくりだしている。そのなかで,① 小規模大学では「個性化」にその活路を求めているが,それのみによって高等研究教育機関としての要件を維持できるか否かが問われており,②大規模大学では,国立大学の法人化ともかかわって管理運営の改革が進行し,全学的意思決定の効率化・迅速化が試みられているが,それは,多数決原理にはなじまない研究・教育の自由な創造を妨げるものであってはならないし,経済的な意味での効率化を一義的に求めるものであってもならない。そのほか,③ 地域社会の充実を目指して増設されてきた公立大学について,地方自治体に大学の本質と運営についての理解を求め,④これも増設され続けてきた大学院における研究者・高度専門家の養成制度の問題点,⑤ 学問の自由から見てなお深刻なジェンダー格差を生み出している諸要因,⑥ 科学者コミュニティの国際交流・国際活動の重要性,などについて指摘した。

(3)報告書の結論
 以上の検討の結果導き出された一応の結論を一言でいえば,学問の自由を必要とし,それを社会から付託されている科学者コミュニティが,全体としての自己統治能力(ガバーナビリティ)を確立することの必要である。学問の自由は,従来は主として,科学者個人のレベルでの自律,組織的には大学の自治,それも教室や部局(学部・研究所)レベルの自治によって支えられるものと考えられてきた。しかし,現代社会における学問を巡る環境の変化は,その狭い枠を越えて,大学全体としての,あるいは個別の大学を越えたそのさまざまな連合体のレベルで,さらには大学以外の組織に属する科学者を含めた専門的あるいは複合的な学界(学協会)レベルで,ひいてはあらゆる専門分野を含む全体としての科学者コミュニティとしての自己統治能力の充実を求めているのである。これは一朝一夕に実現できるものではもちろんない。しかしそれは,日 本のように、人口の過半が高等教育を受け,学問がかつてないほど大衆の中に活かされるようになった現代社会において,その社会から自由を付託された
 「学問」の側の責任として要請されているのである。このように理解すれば,科学者コミュニティの代表として位置付けられた新しい日本学術会議の役割も,その実現のための中心的担い手とならなければならないことが自ずと明らかであろう。そしてそれは,科学者コミュニティが,「科学のための科学(science for science)」にとどまることなく,「社会のための科学(science for society)」 を構築していく上で不可欠な課題なのである。

目 次

Ⅰ 学問の自由の古典的意味とその継承 ………………………………………… 1
Ⅱ 現代社会の新しい環境と学問の自由 ………………………………………… 2
(1) 巨大科学の登場と学問の自由・自律 ……………………………………… 3
(2) 先端研究・先端医療における知の限界 …………………………………… 4
(3) 産学連携と学問の自由..その必要性と問題性.. …………………… 5
(4) 大学の大衆化と教育・格差問題 …………………………………………… 6
(5) 大学のガバナンス(管理運営) …………………………………………… 7
(6) 公立大学をめぐる諸問題 …………………………………………………… 8
(7) 研究者・高度専門家養成制度の在り方 …………………………………… 9
(8) ジェンダー視点からみた学問の自由 ……………………………………… 9
(9) 科学者コミュニティの自己規律と自己統治能力 …………………………10
(10) 学問の普遍性と国境 ………………………………………………………11
Ⅲ まとめにかえて――科学者コミュニティの新しい役割 ……………………11

現代社会における学問の自由

Ⅰ.学問の自由の古典的意味とその継承

 「学問の自由」(Academic Freedom )といわれているものの内容を一般的に表現すれば,第二次世界大戦後のわが国では,狭義には学問研究を専門とする者の研究の自由(課題と研究方法の選択,研究過程および研究成果の発表の自由)を意味するが,広義にはその成果の伝承としての教育の自由を含め,また研究教育の場としての「大学(高等教育研究機関)の自治」を含意するものとして,理解されてきた。
 もとより学問の自由は人類史の当初から認められていたのではない。近代以前の社会においては,さまざまな権力と権威(宗教的・政治的・家父長的権威など)に抵触する学問研究は,干渉と弾圧にさらされるのが常であった。市民革命による近代社会の成立後は,基本的人権の保障と政教分離が進行したかぎりで,権力と権威による恣意的弾圧は影を潜めたが,新たに経済的力を背景とした事実上の干渉が問題化するようになった。学問の自由が原則として保障されるようになったのは,近代社会も後期に至って,学問研究の本質が自然と社会と人間の探求にあり,その成果が大局的には人類社会の進歩の原動力になることが,広く認められるようになってからのことである。
 その際,近代社会の原理との関連で,学問の自由がもつ重要かつ特異な問題性は,学問研究の世界は,近代が生み出した民主主義の一つの原則である多数決原理を適用できない世界であるところに存在する。いうまでもなく,学問研究が生み出す新しい知見は必ず少数意見として登場するため,その当否を多数決で決めることはできない。新しい知見が,それまで正しいとされてきた真理や学説を覆す新しい真理や学説であるとは限らないが,新しい真理や学説は必ず当初は少数意見として登場するのである。それ故,まずは少数意見として登場する新しい知見の当否は,多数決によってではなく,専門家集団=科学者コミュニティー(学界)の内部における実証と実験,あるいは論理的首尾一貫性に基づく説得力によって判断されなければならない。この学問研究に内在する性格は,科学者コミュニティの場である大学や学会の運営にも反映し,専門家集団としての教授会自治や学会運営が,少数意見の尊重を前提とした討議を通じての合意形成を旨とし,極力多数決を避ける努力をしてきたことにも表現されているといっていい。
 ところで,上のような学問研究の世界と異なり,一般の社会・国家は多数決原理に基づいて運営されることを原則としている。もちろんそこでも少数意見の尊重が謳われるのが常であるが,基本的には多数者の価値観,多数者が依拠している物事についての理解,に依拠して社会と国家が運営されているのが普通である。そこに学問研究の成果として,あるいはその成果に依拠して新しい価値観や新しい物事についての理解が提示されたとき,問題によっては既存の価値観や理解と鋭く対立する場合があるのは当然であろう。そこに,新しい学問的成果が既存の価値観や理解に依拠する権力や権威によって忌避され弾圧される場合が生じる根拠があるのだが,同時にそれを許すことは,社会の進歩,長期的には人類の進歩を阻害する可能性を生み出すことになる。近代社会の成長とともに学問の自由が確立するに至ったのは,一面では学問研究の先駆者たちによる旧守的な権力や権威に対する闘いの結実でもあるが,他面では社会や国家が,学問研究が生み出す新しい知見が人類社会の進歩に貢献する役割を次第に理解し,承認したことによるものでもある。そこに学問研究の場としての大学の自治が確立し,自由な研究成果の自由な教授を通じて社会の次代の担い手を育てる高等教育の自由も実現したのである。第二次世界大戦前のきわめて権威主義的な体制下の日本ですら,帝国大学を中心にいわば特権的自治が与えられたのは,そのことを示すものであろう。しかし,この特権的自由は,戦後国民主権に基づく新憲法のもとで,国民に認められ,社会から付託された自由・自治となったのである。
 以上に略述したように,第二次世界大戦以前まで,学問の自由を巡る問題は,主として学問研究を担う場であった大学の自治と諸種の権力や権威との間の緊張関係として存在した。より具体的には,大学において直接に研究と教育を担う教員組織すなわち教授会の自治を巡る問題,とくにそこにおける教員の身分保障を巡る問題として存在した。そして,この点は,学問の自由が憲法上明記されるに至った今日においても,なお十全に実現しているとはいえないことを確認しておかなければならない。さまざまな権力や権威は,とかく人類の未来社会における共通利害よりも現存社会に支配的な価値観やそこにおけるみずからの個別的利害に従って行為しがちな存在だからである。それ故,学問を担う科学者コミュニティは,学問の自由が人類の将来社会,未来社会のために社会から付託された権利であることを自覚し,その負託に応える責務があると同時に,それ故にこそ学問の自由を侵すさまざまな権力や権威に対しては,今後も闘っていかなければならない使命を持っているといえよう。ただ,第二次世界大戦が終わってすでに半世紀以上経過した今日,学問の自由にかかわる問題は,権力や権威に対する緊張関係を超えて,科学者コミュニティ内部の諸問題にまで広がりをもつに至っている。以下ではその点に注目し,現代社会に新しく登場してきた学問の自由を巡る諸問題について,問題提起的に検討することとする。

Ⅱ.現代社会の新しい環境と学問の自由

 近代と区別された現代社会の始期をどこに求め,それをどのように特徴づけるかは,論者によってさまざまな見解があり得る。ここでは学問の自由の在り方に大きな影響をもたらす新しい環境が生まれ,その内容をあらためて検討しなければならなくなった第二次世界大戦後の最近半世紀の事態を念頭において,問題を考えることとしたい。
 学問の自由に新しい環境をもたらした要因には,細かく考えればさまざまの要因が考えられるが,その基本的なものとして,第一に技術革新のめざましい進展を,第二に身分や階級,人種や民族,さらには男女間の同権化による大衆社会化と大衆民主主義のいちじるしい進展をあげることに異論はないであろう。これらは当初は主として先進諸国において推進されたものであったが,その趨勢は,最近では新興工業諸国と旧計画経済諸国へ,さらには一連の開発途上諸国にまで波及しつつあるといっていい。
 第一の技術革新のめざましい進展は,それ自身科学の発展の結果でありまた動力でもあるが,(1) いわゆる巨大科学の登場を促し,(2)それまでの個人研究中心から,国家的・国際的な規模を含む共同研究の組織化という,研究スタイルの変化と多様化をもたらした。また,(3) 従来はかなり明確に区分されていた基礎研究・応用研究・開発研究の間の距離を縮め,あるいはオーバーラップさせる傾向を生みだし,さらには(4) 先端科学・先端技術といわれる分野で「知の限界」が問題とされる領域が生みだされるに至った。第二の大衆社会化と大衆民主主義の進展は,学問をそれまでの一部知識階級の独占物から社会全体に開放し,(1) 大学(その他の高等教育研究機関を含む,以下同じ)進学率の上昇による大学の大衆化,(2) 女性の進学率の上昇と研究職への進出などを通じて,科学・学問の大衆化,高度知識社会の到来をもたらした。そして第三に,以上の結果,一方では巨大科学をはじめとして,研究経費並びに高等教育経費が飛躍的に増大し,科学・学問の資金面における国家・社会への依存度が高まり,財政を通じる国家と学問の世界=科学者コミュニティとの間,および多様な大学や学協会からなる科学者コミュニティの内部に,さまざまな新しい緊張関係を生みだすに至った。またその反面として,科学・学問の大衆化による大学や学協会,ひいては研究者一人ひとりの社会的責任が重視されるに至った。学問の自由を支える大学の自治も「社会から付託された自治」として「社会への説明責任」が重視されるようになり,また 1960 年代末の学生反乱を契機とした大学紛争において,権力に対する「教授会の自治」では収まらない,助手・技官・図書館職員など研究支援職員を含む,大学構成員内部のガバナンスの問題が提起されるに至った。以下では,これらの各々,並びにこれらに関連する諸問題について,もう少し立ち入って検討してみよう。

(1) 巨大科学の登場と学問の自由・自律
 こんにち巨大科学といわれているものには,研究プロジェクトの規模そのものが巨大な「大規模研究」と,研究に利用される設備が巨大な「大型設備研究」の二種類があり,前者にはゲノム,ガン,AIDS,情報,災害予知などの諸研究が,後者には大型加速器,放射光,原子力,核融合,海洋研究・開発,極地研究,超高速計算機,宇宙研究・開発などの諸研究が含まれる。この両者には基礎研究と国策的研究が混在しているが,いずれも巨額の経費を必要とし,その大部分を国の財政に依存しなければ成り立たないという性格を持っている。そこから学問の自由との関係でいくつかの問題が発生する。
 ① プロジェクトの決定プロセスにおいて,国の予算措置における政府と議会の関与が不可欠であるところから,学問内在的要請と政治的要請..その背後にあるとされる納税者の意志..との間に緊張関係が生じる場合がある。それだけに,一方では国策を受けとめる際の科学者の社会的責任の自覚が,他方では社会に対する科学者の説明責任が重要となる。
 ② 巨大科学のプロジェクトは,そのほとんどすべてが自然科学の分野に属するが,限られた財源のもとでは,その充足と拡充が,人文社会系の学問や巨大科学以外の自然科学を圧迫する危険なしとしない。自然系と人文社会系,巨大科学と非巨大科学の間の適切なバランスの確保,巨大科学プロジェクト間の調整において,科学者コミュニティ自身の自律的ガバナンス(調整能力)の強化が要請されている。
 ③ 巨大科学においては,大学その他の研究機関の枠を超えた,またしばしば国籍・国境を越えた多人数の研究者によって研究チームが編成されるのが通例である。特に先端高額設備の存在自体が新たな研究領域を創出する大型設備研究においては,多くのユーザーによる「共同利用」が不可欠であることから,学問の自由との関わりにおいて,これら高額設備の導入の是非,設備へのアクセシビリティ,設備の存続・継承問題などについて,科学者コミュニティのガバーナビリティが問われることになる。共同研究体制におけるガバナンスの在り方について,日本学術会議はこれまでも,共同利用研究所の運営における「大学の自治」の枠を超えた科学者の自治について提言したことがあるが(日本学術会議「要望:国立大学法人化と大学附置共同利用研究所等のあり方について」平成 15 年7月15 日),今後,プロジェクトの決定過程における関係科学者の総意の結集,プロジェクトチームや大型設備研究におけるユーザーコミュニティの運営,研究成果に対する参加者の貢献度の評価,研究成果の利用などについて,科学者コミュニティにふさわしい基準を検討し樹立する必要があるであろう。さらに大学を含む国立研究機関の法人化に伴う国と先端大型設備ユーザーの関係の変化が,これら大型設備の利用に対する受益者負担制の導入など,財政面から学問の自由に否定的な効果をもたらすことがないよう注意すべきである(日本学術会議第4部報告「先端的大型研究施設での全国共同利用の在り方について(提言)」平成 17 年2月 24 日)。
 ④ 日本学術会議(19 期)は本年(2005 年)4月の声明『日本の科学技術政策の要諦』において,巨大科学研究の国際的開放・協力,特にアジアの研究者との協力が重要であることを強調したが,学問の自由にかかわる上記の諸点は,国際的共同研究においても留意される必要があるであろう。

(2) 先端研究・先端医療における知の限界
 近年における学問とくに自然科学の発展は,とりわけ生命科学における先端研究・先端医療の分野で,いわゆる「知の限界」なるものが問題として提起されるに至った。
 かつては,学問研究は無条件に自由であり,無限に追求されるべきものと考えられてきた。科学・技術の発展の成果とその利用は概念的に区別され,科学者のかかわる領域は基本的に前者の範囲にとどまり,後者は政治や社会の問題と考えられてきた。もっとも第二次世界大戦中の原子爆弾の開発に関係した反省から,「科学者の社会的責任」が論じられるようになった。国際的にはいわゆるラッセル・アインシュタイン宣言に始まり,湯川秀樹博士も参加した物理学者のパグウォッシュ会議の活動があり,国内でも日本学術会議による原子力研究における「自主・民主・公開」の三原則の確立,いくつかの大学における軍事研究の拒否宣言などが行われてきた。しかし,これらはあくまで社会人,市民としての科学者の倫理として理解され,科学自身の問題とは区別されてきた。しかし近年における,クローン動植物を誕生させるに至った遺伝子操作技術,臓器の売買を生み出した移植技術,体外受精から始まって「代理母」の登場にまで至った生殖技術などの発達,また最近にお けるヒトゲノム解読の完成などは,何れも人間存在の根底にかかわる問題を提起しており, そこから科学・学問そのものに限界を認めるべきではないか,という論議を呼び起こしているのである。このような問題の性格に照らすならば,事はもはや自然科学の領域にとどまらず,倫理や宗教から法規範など人文社会系を含めた科学者コミュニティ全体にかかわる問題といわなければならない。
 このような問題の解決の方向について,おおまかにいえば個人意志の尊重と個人責任を旨とする米国型の生命倫理観と,人間の尊厳や人権を重視する欧州大陸型のそれを見いだすことができるが,日本においてはこれらの問題を規律する原理的視点が定かでなく,生命倫理に関する「法令」と「行政指導指針」および「学会などによる自主ルール」などの間に十分な整合性が存在しているとはいえないのが現状である。これらの問題の解決のためには,先ずは関係する科学者自身の,さらには科学者コミュニティ全体の自覚と合意形成の努力が必要であろう。

(3) 産学連携と学問の自由-その必要性と問題性-
 第二次世界大戦後の日本では,産学連携(当初使われたことばでは産学協同)は必ずしも活発とはいえず,最近まで中国を含むアジアの諸国と比べても遅れていた。その背景には,大戦中,産業界と大学が戦争遂行という国家目的に従属して協力させられたことへの反省のほか,大学における基礎・応用研究と,産業界における開発研究との分業がかなりの程度成り立っていたこと,企業が基礎・応用研究を必要としたときには,みずから企業内に中央研究所を作り,大学に対する要請は,基礎的な知識と応用力を備えた人材供給(教育面)に重点があったこと,などによるものと考えられる。ところが 1960 年代末の大学紛争を契機とする大学改革の機運が後退し、1980 年代以降になると日本でも産学連携機運が盛り上がり,企業から大学への委託研究,技術者の派遣,寄付講座の提供などが行われる ようになった。その背景としては,一つには IT 技術,バイオテクノロジー,新素材などの 新分野で,基礎研究・応用研究と開発研究の間の距離が縮まり,重なり合う場合も生じてきたこと,二つには新自由主義とその基礎をなす市場重視の考え方が,社会や大学に浸透してきたことがあげられよう。
 そもそも自然を律する法則の探求を課題とする自然科学と,その法則の技術的利用によって有用物を生産する産業界が相互依存関係にあるのは当然で,そこに産学連携が必要とされる客観的な根拠が存在する。しかし,近代社会における産業を構成する企業は資本の形態をとっており,資本はその活動を私有財産制と利潤原理によって制約されている。そこから企業の利潤原理と,真理の探求それ自体を目的とし,その成果を万人に公開し提供するという学問(大学)の論理との間に,さまざまな緊張関係が生じることになる。特許とその報酬の在り方,知的財産権と研究経過や成果発表の自由などの問題が,その焦点となることはいうまでもない。かつて大学はこの緊張関係を回避するために産学協同(連携),具体的には産業界からの資金導入に消極的だったと思われる。しかし近年,基礎・応用研究と開発研究の接近・重複という,産学ともに連携を必要とする新しい局面が登場している状況の下では,両者がともにこの客観的に存在する緊張関係を自覚しつつ,相互に連携の実をあげうる適切な方策やルールを創造してゆく必要があろう。それは,企業の側で社会的責任投資(SRI, Social Responsible Investment)が重視され,大学の側でも社会に開かれた大学を目指す動きが強まっている近年の傾向から見て,不可能ではないと考えられる。この点で科学者コミュニティの代表としての日本学術会議は,大学およびその連合体とともに重要な役割を果たすことが期待されている。
 その上で,なお残る問題として重視しなければならないのは,大学以外の国・公・民間(独立行政法人,私企業など)の試験研究機関における学問の自由の問題である。平成 14年の時点でこれらの機関は,独立して研究に従事する全国の研究者の約6割強を擁し,研究費の約8割を使用している。私企業の研究機関はもちろんのこと,国公立や独立行政法人などの非営利団体でも,それぞれ特定の目的を持っており,それが研究の自由と研究発表の自由を制約する条件となっていることも事実である。この制約をある程度不可避的なものと認めるとしても,これらの機関に属する研究者は日本学術会議が依拠する科学者コミュニティの構成員であり,研究者としては大学等における研究者と異質なわけではない。こうした機関における研究者の学問の自由の在り方について,正面からの検討が始まることを期待したい。

(4) 大学の大衆化と教育・格差問題
 かつて大学における教育は,教員である研究者が学問研究の成果を次世代に伝え,みずからをも乗り越えうる後継者を育成する営みと考えられ,その意味で教育の自由は学問の自由の一部をなすものと考えられてきた。今日それは,一方における学問の専門化・先端化が進んだこと,他方における大学の大衆化によって,少なくとも学部段階の教育では現実離れした絵空事になっている。研究成果の教授は大学院の博士(後期)課程でかろうじて可能といわれており,そこから研究組織と教育組織を分離する試みが生まれ,またその導入の動機は予算増にあったとはいえ,大学院を部局として大学院大学への傾斜を強める傾向が生まれている。研究と教育の乖離の問題は,両者の自由を内包してきた学問の自由に新たな問題を投げかけているといえよう。
 相次いだ大学の増設と他方における学齢人口の減少によって,短大を含む大学進学率は5割前後に達し,進学希望者の全員入学が可能になる時代が目前に控えるに至った。ここまできた大学の大衆化は,一面では高度知識社会に向けての階梯としてプラスに評価することもできるが,同時に大学進学者の学力の低下が問題化し,大学間の格差をますます拡大する結果をつくりだしている。この格差は,一方では入学する学生の質および(近年増大している定員割れ大学の続出も考慮すれば)量の格差として,他方では,国・公・私立の大学間および国・公・私立大学のそれぞれの内部における大学間の財政力格差として再生産されている。これらの格差は,中期的には学問の担い手である研究者の移動を通じて研究の質のレベルでの格差をも生みだし,いずれの面においても有力な大学の大都市偏在に規定されて,研究と教育の両面における地域間格差を拡大している。こうした格差の拡大に対して,文部科学省並びに大学人は小規模大学のいわゆる個性化,内容的には特定の職業人養成や地域密着化などの推進をもって対応しようとしているが,果たしてこのような形での個性化のみによって,学問の自由を付託された高等研究教育機関としての要件を維持しうるのか否かはなはだ疑問であり,事態の客観的な解析と対策が必要であろう。

(5) 大学のガバナンス(管理運営)
 学問の自由は,ながらく大学の管理運営における自治,就中学問研究の専門家集団が構成する教授会の教授会による自治によって担保されると考えられてきた。その内容は教授会による教員の選考人事,カリキュラム編成,採用された教員の研究教育内容の自由と身分保障,教授会構成員による管理者(部局長,学長など)の選出,教員みずからによる管理運営などがそれである。これらは前章「Ⅰ」で述べた学問研究の本質に由来するものであって,諸事情の変化とともに必要となるそれらの周辺にかかわる具体的な制度の改革はあり得るものの,その精神は今日においても維持されなければならない。
 もっとも,1960 年代末の大学紛争を契機に,教員以外の大学構成員である学生や職員の管理運営への参加が問題となったが,それが具体的に制度化された例は僅かであったし、そのような事例も徐々に後退していった。しかし,本章「Ⅱ」の冒頭で述べた学問と大学を巡る環境の変容は,あらためて大学のガバナンスに改革の必要を促し,その一環として大学制度の改革,具体的には国・公立大学の法人化並びに恒常的な大学評価の導入を促したのである。私立大学においてもその動きに準じた対応が進められているといっていい。
 もっとも,これらの改革はまさに始まったばかりで,現在その帰趨が十分に予見できる状況ではなく,従ってその評価を下すのは差し控えなければならない。ここではこのような大改革を促した諸要因を,以下に列挙するにとどめることにしたい。
 ① 改革を促した最大の要因の一つは,学問分野の多様化・複雑化,学際化,国際化,そして既述の巨大科学の登場,これらの結果としての大学の大規模化などによって,既存の学部を超えた全学的意思決定の必要性とその効率化・迅速化の必要が高まったことであろう。教授会・評議会の権限を弱め,学長を頂点とするトップダウンによる全学的意志決定システムを強化する傾向はそのことを示している。
 ② 一方における産学連携の必要,他方における大学の大衆化によって,社会との連携、社会への説明責任を果たす必要が強まったこと。国立大学法人における経営協議会や学長選考会議への学外者の参加は,その端的な現れであろう。
 ③ 国立大学の法人化は,出発点において公務員の削減という行政改革目的で始まったという研究と教育にとっては外在的な側面があるが,優秀な研究者の処遇や国際化に伴う外国人研究者の招聘,海外の大学・研究機関との交流等に障害となっていた公務員制度から大学を解放した側面がある。
 これらの諸要因が促した今次の改革が,今日の学問状況における学問の自由との関連で積極的な効果を発揮するか否かは,十分注目する必要があると思われる。意思決定の迅速化と管理運営の効率化が,「Ⅰ」で述べた多数決原理にはなじまない研究・教育の自由な創造を妨げるものであってはならないし,経済的な意味での効率化を一義的に求めるものであってもならないであろう。と同時に,①で指摘した問題は,すでに述べた巨大科学のケースのように,個々の大学単位を超えて全国的規模で考えなければならない問題を含んでおり,その意味では科学者コミュニティ全体としての自治の必要性を求めているといえる。その点で,国・公・私立大学の各連合体とともに,日本学術会議の果たすべき役割があらためて検討されるべきであろう。

(6) 公立大学をめぐる諸問題
 国立大学の法人化と関連して,これまで国公立大学として国立大学と一括して取り上げられがちであった公立大学に,新しい局面が訪れている。一方ではこの十数年の間に,地方で公立大学ないし公設民営的な大学の新設が見られると同時に,他方では大都市に既存の公立大学で改革にかかわる一連の問題が生じているのがそれである。前者は一般的には,近年における地域社会の充実と地方自治強化への動きと連動した積極的側面と評価できるが,それが所期の目的を達成できるか否かは,設置者である地方公共団体が,この報告書で述べている学問の自由にかかわる大学の管理運営に,いかに熟達するかにかかっている面があることをここでは指摘しておきたい。
 一般にわが国の地方公共団体においては,国立大学における文部科学省や私立大学における理事会のような,大学問題を第一義的・恒常的に考える場が存在しないか,存在してもその力は弱く,日常的な運営は大学自体に委ねられてきた。一方,大学に対する施策や財源は,選挙により交替する地方公共団体の首長の見識,並びに変動する財政事情によって左右される傾向が存在する。こうした傾向は国立・私立大学の場合にも無いわけではないが,公立大学の場合はその程度が著しく,その帰結の一端が現にいくつかの大都市公立大学の改革過程で生じている教員の流出などに現れているといえよう。このような負の現象を克服し,公立大学が高度知識社会の地域の担い手として発展するためには,地方公共団体が学問の自由と大学の自治について深い認識と識見を持ち,安定した財源の確保につとめるとともに,公立大学並びにその連合体である公立大学協会がその自己統治能力を強める必要があるであろう。

(7) 研究者・高度専門家養成制度の在り方
 学問の自由が人類の将来社会の進歩のために存在するものであるとすれば,学問の担い手の後継者の養成は,将来社会の指導者や高度の専門家の養成とともに,大学と学協会を含む科学者コミュニティの本質的な役割の一つといわなければならない。日本における研究者養成は,戦後の一時期まで大学学部の講座制のもとにおける助手制度と旧制大学院における特別研究生制度によって行われていたが,その後は一部の例外を除いて,主として昭和 28(1953)年度に発足した新制大学院によって実施されて今日に至っている。新制大学院は,指導教授制は存在するものの,一定のカリキュラムに基づくスクーリングが行われることによって,院生は複数の教員から指導を受けることができ,また研究テーマや専攻を異にする院生同士が切磋琢磨する環境が提供されることによって,講座制による縦割りの旧制助手制度がもっていた家父長制的難点を避けうる好ましい養成制度であった。国立大学の場合当初乏しかった予算措置も,大学院重点化と大学院部局化によってかなり改善されて現在に至っているが,なお次のような諸問題が残され,あるいは新たに生まれている。
 ① 結婚適齢期にある大学院生の生活条件・研究条件はなお劣悪で,大幅な改善を必要とする。
 ② いわゆるアカデミック・ハラスメントが後を絶たず,この予防策,救済策の確立は,大学院生自身の学問の自由の保障という観点からも早急の課題である。
 ③ 先にも指摘した学問分野の多様化・複雑化,学際化,国際化,そして既述の巨大科学の登場によって,院生の研究の場は所属大学の研究室にとどまらない広がりを見せている。大学院間の単位の互換性や他大学・研究所等への留学制度など,このような事態に対応できる方策が大学間や学協会レベルで確保される必要がある。
 ④ 大学のステータス向上のための大学院が乱立し,実質的に空洞化して大学院の規模とレベルの格差が拡大しており,その打開策が必要である。

(8) ジェンダー視点からみた学問の自由
 男女共同参画社会の確立が標榜されて久しいが,大学学部学生レベルの女性比率は増大したものの,大学院生レベルにおけるにおける女性比率は未だ小さく,また専攻に偏りが見られる。大学の教員構成におけるジェンダー格差はより以上に大きい。たとえば平成 12(2000)年の時点で,4年制大学の教員数のうち,女性は1割強を占めるにすぎない。さらに男性教員では教授の数が助教授や助手の数を凌駕しているのに対して,女性教員は助手がもっとも多く教授がもっとも少ない。このことは,職階におけるジェンダー格差が明確に存在することをしめしている。
 問題はその原因であるが,ある調査によれば(原ひろ子編『女性研究者のキャリア形成』勁草書房,1999 年)あらゆる専攻分野の業績を反映しうるように開発された業績指標では,女性が男性よりも低いものの,その要因として,①配偶者・子どもの存在は男性研究者にはプラス,女性研究者にはマイナスに作用していること,②非常勤講師では男女の間に業績の差異はないこと(同様に研究環境が悪い場合には,さしたる男女差が生じないこと),③常勤の男女研究者間には業績指標に差がみられるが,それは主として両者の勤務先の優劣の差による「処遇の差」によるものであること,④研究活動を阻害する要因が,男性においては限られているのに対して,女性の場合多様であること,などが明らかにされている。さらに別の調査(板東昌子「これからの科学と女性科学者」『学術の動向』2004 年4月号)においては,子育てが終わった比較的高齢期に業績が増大するという,研究生活上のライフサイクルの特殊性が指摘されている。
 大学,ひいては科学者コミュニティにおける学問の自由を男女が等しく享受すべく,両性の平等の実現のために,日本学術会議はこれまで,①キャンパス・セクシャル・ハラスメントの防止,②研究生活における別姓・通称の使用の実現,③女性が多い非常勤講師への科学研究費補助金申請資格の付与,④科研費取得者が育児休業をとる場合の返還義務の免除など,さまざまな取り組みを行ない成果を挙げてきた(ジェンダー問題の多角的検討特別委員会『ジェンダー問題と学術の再構築』2003 年 5 月 20 日,8頁以下を参照)。今後もその努力をいっそう傾注するとともに,学術分野における男女共同参画を推進するために、ジェンダー学およびジェンダー研究が必要かつ極めて重要な意義をもつことを改めて確認しておきたい。

(9) 科学者コミュニティの自己規律と自己統治能力
 以上では,現代における学問の自由を問題にするに当たって,それを科学者コミュニティが強く主張すると同時に,その自由が社会から付託を受けたものであり,社会に対する説明責任を負うものであることの自覚が必要であることを強調してきた。しかし,科学者コミュニティの社会的責任をより深く考えるならば,その責任は単なる説明責任にとどまるものでないことを自覚すべきであろう。それは具体的には科学者コミュニティの自己規律・自己統治能力の確立の必要である。
 その点が現実にも自覚されつつあることの一例は,本委員会が近く発表する予定である「科学者のミスコンダクト問題」に関する報告書で示すように,近年多くの学協会が「倫理綱領」の制定に取り組み,それに違反した場合の措置にまで踏み込んだ対応を実施し始めていることにも現れている。従来こうした問題は,一次的には当該科学者が属する所属機関,たとえば大学の教授会か,あるいは直接司法の場に持ち込まれていたが,科学者コミュニティ全体としての自己規律という観点からは,アカデミック・コートの構想なども検討されてよいかもしれない。巨大科学の登場とも関連して絶えず問題となる研究費等の計上・配分計画も,長中期的には次世代と未来社会に責任を持つ科学者コミュニティが担うべき課題であろう。その点でも総合科学技術会議とともに車の両輪の一つとされた新しい日本学術会議の取り組みが期待されるところである。

(10) 学問の普遍性と国境
 本来,科学・学問に国境はなく,それは人類に普遍的なものであるが,現実の学術国際交流には国家の利害に起因するさまざまな障害が存在する。また,学問の自由が十分に保障されていない国や地域が存在するし,科学者の人権が侵害されているケースも少なくない。さらに現代においては,地球規模で解決を急がなければならない問題が山積している。地球の温暖化をはじめとする環境問題,化石燃料や森林をはじめとする資源問題,人口問題,貧富の格差,食糧問題,核兵器・戦争・テロ等々がそれである。
 これらの諸問題の一つひとつを打開し解決するのは,いうまでもなく国際政治の課題である。しかし,たとえば資源と環境問題にかかわる地球の有限性についての警告が,科学者の集まりであるローマクラブによって先鞭をつけられたことが示すように,科学者の果たすべき役割は大きく,科学者コミュニティの国際的交流はきわめて重要である。その点で,近年急速に活発化してきている日本学術会議の国際活動は,今後もいっそう拡大強化されなければならないであろう。特にわが国が位置するアジアにおけるその強化が図られることが必要と思われる。

Ⅲ.まとめにかえて――科学者コミュニティの新しい役割

 以上の本報告では,「Ⅰ」において「学問の自由の古典的意味とその継承」を確認し ,「Ⅱ」において「現代社会」の新しい「環境変化」にかかわる「学問の自由」の諸問題を,いくつかの領域について検討してきた。もとよりここでとりあげた諸領域は,「現代社会における学問の自由」という課題の解明に必要なすべての領域をカバーしているわけではない。しかし,可能な限りの知見と共同審議を経てまとまられたこの報告は,「現代社会における学問の自由」を探るための重要な部分はこれを網羅しえたし,それらをパノラマ化し俯瞰することで,問題の核心を浮き上がらせることができたのではないかと自負している。
 その核心を一言でいえば,学問の自由を必要とし,それを社会から付託されている科学者コミュニティが,全体としての自己統治能力(ガバーナビリティ)を確立することの必要である。学問の自由は,従来は主として,科学者個人のレベルでの自律,組織的には大学の自治,それも教室や部局(学部・研究所)レベルの自治によって支えられるものと考えられてきた。しかし,現代社会における学問を巡る環境の変化は,その狭い枠を越えて,大学全体としての,あるいは個別の大学を越えたそのさまざまな連合体のレベルで,さらには大学以外の組織に属する科学者を含めた専門的あるいは複合的な学界(学協会)レベルで,ひいてはあらゆる専門分野を含む全体としての科学者コミュニティとしての自己統治能力の充実を求めているのである。これは一朝一夕に実現できるものではもちろんない。しかしそれは,日本のように、人口の過半が高等教育を受け,学問がかつてないほど大衆の中に活かされるようになった現代社会において, その社会から自由を付託された「学問」の側の責任として要請されているのである。
 このように理解すれば,科学者コミュニティの代表として位置付けられた新しい日本学術会議の役割も,その実現のための中心的担い手とならなければならないことが自ずと明らかであろう。そしてそれは,科学者コミュニティが,「科学のための科学(science forscience)」にとどまることなく,「社会のための科学(science for society)」を構築していく上で不可欠な課題なのである。
 この「社会のための科学」とは,世紀転換点の 2000 年に日本学術会議がホストとなって開催された世界アカデミー会議が,21 世紀の科学のあり方を展望した宣言の中で打ち出されたキーワードである。社会のための科学というと,時に一国レベルでの経済「社会」や即物的な欲望の渦巻く「社会」を想定し,そのニーズに即応しうる科学技術を想定する向きがないではない。しかし,科学者コミュニティに課せられている 21 世紀の責務としての社会のための科学とは,科学の発展をもその一因として,人類社会が遭遇しはじめた地球規模での「行き詰まり問題」に勇気を持って向き合い,諸課題を俯瞰的にとらえてその根源的構造を明らかにし,50 年から 100 年先を見据えた解決の方向を,「科学者の助言(unique voice of scientists)」として提示することを意味している(日本学術会議「第 19 期活動計画」学術の動向 2003 年 12 月号 14 頁)。
 ここで unique とは,日本語化されて巷間「めずらしい」とか「特殊な」といった意味合いを持つ含意ではない。それは,科学者が科学的真理にのみ忠実であるという原点から,上記の今日的諸課題に対して科学者コミュニティとしての力を発揮して俯瞰的に迫ることで,その解決を統合的に果たそうというものである。こうした助言を可能とするためにも,「学問の自由」が根底におかれなければならない。
 また,直面する「行き詰まり問題」が科学の発展をも一因としていることから,科学者は「社会のための科学」という場合の「社会」に自らもまた埋め込まれていることに自省的に向き合わなければならない。科学の発展の結果に科学は率先して責任を引き受けるべきであり,こうした「科学の社会的責任」を果たすにも「学問の自由」は不断に覚醒を求められているのである。
 日本学術会議は,すでに第 18 期以来,こうした課題を強く意識し,「日本の計画(Japan Perspective)」を提言するとともに,科学者コミュニティを構成する 75 万科学者の「代表機関」性に照らして,科学・学術の諸領域・諸分野を,上記の意味で統合的に包摂しうる「新しい学術の体系」の構築を検討してきた。両者は,日本学術会議の活動の「車の両輪」となって,「進化する人類社会」のシナリオを「持続可能性(sustainability)への進化」及び「多様性(diversity)の受容とその上での新たな展開」と展望し,それを担いうる「適切な情報循環システム」として科学のあり方を提示してきた。さらに第 19 期には,声明『日本の科学技術政策の要諦』において 21 世紀半ばまでの国家ビジョンを「品格ある国家」「アジアの信頼」の二つにおき,その「目標ミッション」として人類社会の「持続可能性サステイナビリティ」の解決を目指す「環境と経済の両立」を設定し,その実現のための「主要課題」を提示した。
 こうした unique voice を可能にした近年の日本学術会議の成果に照らすならば,新生日本学術会議もまた,科学者自身がその一員たる人間「社会」にあって「社会のための科学」を構築しうるコミュニティの代表機関として,一層の進展を期待されているといえよう。


投稿者 管理者 : 2005年07月29日 02:39

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