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2005年08月01日

大学経営の「成果」と「公共性」

京滋私大教連
 ∟●機関紙No102(2005.7.28号) より

大学経営の「成果」と「公共性」

重本直利(龍谷大学)

 大学の事業は教育・研究である。では、大学経営の捉え方、大学経営論の方法論的枠組みはとは如何なるものか。経営学としてはじめてノーベル経済学賞を受賞したH・A・サイモンの理論に依拠すると、まず第一のフレームワークに、理念(最高価値)―目的―意思決定―手段、第二のフレームワークに、情報―意思決定―行動がある。いずれの場合も重要なのは意思決定(判断・選択)である。何のための大学経営かという「目的」、それを基礎づけるのが理念(最高価値)である。
 しかし、大学経営者に広まっているのは、「質の高い教学展開」、「業務遂行の効率化」、「人的資源の効率的運用」、「大学を取り巻く環境変化―志願者数の減、大学間競争の激化、経済環境の悪化」、「旧来の人事制度の制度疲労」、「大学業務の多様化・高度化」といった一般的で一元的な捉え方である。これらは理念と結びついていない「目的」設定および「情報」把握である。ここから意思決定を行おうとしている。第一のフレームワークにおいては、いかなる「理念」を実現するために「目的」が設定され、大学のあり方の意思決定がなされ、同時に、とりうる「手段」との関わりを考慮して意思決定が行われているかということである。この独自性と具体性が大学経営者に求められている。要するに、大学の理念(最高価値) に基づく「成果」が求められている。そこに大学の存在理由がある。
 「成果」のもう一つの重要な中身は、近年盛んに議論されている社会的責任論である。企業の場合でも、JR西日本をみるまでもなく「公共性」が厳しく問われている。同様に大学の社会的責任としての大学の「公共性」が問われることになる。「公共性」の議論において、人間性、民主主義の深化、そして人権が二一世紀の組織改革および運営原則となっている。
 一九九八年の「ユネスコ二一世紀高等教育宣言」では、高等教育改革の推進によって、「現在、価値の深刻な危機に見舞われている我々の社会が、単なる経済的事情を超えることが出来、道徳性と精神性の深まりを具体化することが出来るのである」と述べられている。
 また、「国際人権(社会権) 規約」の一三条二項(c)の「高等教育の漸進的無償化」(日本政府は留保したまま) は、高等教育の「公共性」をふまえたものである。国公私立を問わず学納金に大きく依存するわが国の教育政策、「受益者負担思想」は、大学教育・研究の「私益性・経済性」を固定化し強化しており,大学経営の「公共性」を後退させ,「理性の府」の荒廃を招来しつつある。この「漸進的無償化条項」は単に家庭負担増および大学経営困難の問題からだけで捉えられるものではない。それは、現行の「市場原理」、「競争原理」に基づく評価視点ではなく、「公共性」(大学の社会に対する教育・研究責任)に基づく評価視点を提供するためのものである。
 高額学納金を前提とするのではない「漸進的無償化条項」は二一世紀の日本の大学づくりのフレームワークの基盤(グランド・デザイン)を提供する。「受益者負担思想」および「私益性・経済性」をそのままにして、教育・研究評価活動をいくら積み重ねても無意味であり徒労でさえある。「腐った土台」の上に立派で緻密な高層ビルを建てているようなものである。早晩、瓦解するのは明白である。大学の「理念に基づく成果」、「公共性」という土台があって、はじめて「評価」活動に意味がある。
 大学経営における「理念に基づく成果」と「公共性」の中身を明確にしたのが、「ユネスコ二一世紀高等教育宣言」、その関係文書、および「国際人権(社会権)規約」であり、また日本国憲法、教育基本法である。これらは大学経営者には「必修」の文献・資料である。日本における現行大学経営のフレームワーク(グランド・デザイン)の転換、「グローバル・スタンダード」に立つための高等教育改革は今日急務である。
(おわり)


投稿者 管理者 : 2005年08月01日 00:48

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