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2005年11月04日

立命館大学は嘘つきだ

立命館アジア太平洋大学(APU)大分地域労働組合APU分会
 ∟●2回目の団体交渉、2005/10/4

第二回団体交渉記録

日時:2005年10月4日(火)午後18時03分~20時15分頃
会場:本部棟3階 第1会議室
出席者:組合側…15人 大学側…9人
要求事項
(1)来年3月末予定の4人の常勤講師の雇い止めを撤回し、引き続き常勤講師として雇用すること
(2)常勤講師の雇用を継続すること
経過(議事録から抜粋)
(以下、組合側:組 大学側:大)

……

6人の常勤講師のそれぞれの思いーー着任に至るまで

組…98年9月に就任承諾書の提出を求められ迷ったが、これを断ると契約の可能性がなくなるので提出した。常勤講師規定は会議後の12月につくられたと言われたが、そのことを着任(2002年4月)まで知らされていなかった。

会議前ははっきりした方針をもっていなかった。→就任承諾書の要請→その時点では雇用の継続が不明であったがとにかく提出。→京都の会議→常勤講師規定が作られた。→(この間常勤講師規定について知らされていない。)→着任(着任時の説明会で「公募に応募はできる」と言われたので、京都での説明と違うと抗議した。その際、「公募だが、大丈夫だ」と言われたので、継続可という意味ととらえた。)その後、他の教員(含英語)も、着任の3年後も継続できると言われた。

私については、電話で「3年半待ってほしい」と言われた。4年だけの契約で3年半待てと言われたとは思っていなかった。いろいろな状況の先生がいるが、京都の会議の後は全員認識が同じになった。いかに重要な会議であったかがわかる。

組…アメリカの大学の秋田校で助教授をしていたが、2003年3月で契約が終わるので、仕事を探していた。そこは無期限更新可で、8年教えた。11月にAPUから不採用の通知が来た。さらに他のポストを探し、面接も受けた。その時、APUから電話がかかってきて「まだ興味があるか」と聞かれた。あると答え、その後A先生・B先生の面接を受ける。その際、再応募可と言われた。もちろん同じ条件での同じ仕事を暗示していた。他にも三校から、少なくとも1回か2回更新可の職で、採用通知をもらっていた。2003年1月末に坂本名でもらった英語の採用通知(日本語はなし)には、雇用の条件として、講師、2003年4月1日から2006年3月31日までの3年と書いてあった。そこに、意味のわからないフレーズがあった(Provided the employment contract will be concluded by year term.)。それに続いて、”renewable for 3 years” と書いてあったので、少なくとも6年間APUで教えられると確信した。

組…99年の説明会の前に承諾書によって条件などに同意したはずと言われたが、実際にはその際4年後の雇用の継続があるか不安だったので99年5月10日付のfaxでC先生宛てに質問した。電話でDさんからお返事をいただいたが、はっきりしなかった。その後京都の説明会で、4年+1年、その後の更新有、定年は60才までとの説明を受け、メモも残っている。これが間違いであると言われたが、それを着任まで知らされたことはない。

組…台湾の大学で専任として勤務していた。1年契約だったが無期限で定年まで更新できた。また、外国人では初めてのクラス担任を頼まれていた。2001年夏に辞職して京都での会議に出席した。大学の日本語科の主任からは戻ってこいと言われていた。大学自体の開学と4年契約に不安をもっていたが、会議に出席して他の教員同様に雇用の継続を確認し、台湾へ戻る可能性を切り捨て、APUに着任することにした。

組…京都の立命館大学で非常勤講師をしていたので、APUも4年だろうと思っていた。別府は田舎なので、開学できるか?教員が集まるか?という噂があった。家族がいる韓国に帰る可能性もあったが、会議に出席してAPUは立命館大学とは違って雇用が継続できると確認したので、APUに着任することにした。

組…2002年1月に急募が出て、応募し、2002年2月に採用が決まった。赴任前には労働条件についての問い合わせはしなかった。ただ長く働けるところだとの認識はあった。それはAPUに来る前、関西の大学で非常勤をしていたが、そのときの同僚が2000年にAPUに常勤講師として採用され、職場を去った。APUの常勤講師の労働条件について、彼女は「一応期限は定められているけど、もしかしたら専任のようにずっと働けるかもしれない。」と言っていたからだ。「もしかしたら」というあいまいな表現であったので、パーマネントな職かどうかは確証がなかったが、ある程度長く働けるところなのだと思っていた。2002年着任当時の新任教員のオリエンテーションで「他に条件のよいところがあったら応募してもらってもいいけど、任期が終わった四年後、募集があるので、それにまた応募してもらってもいいですよ。」という説明を受けたので、彼女が言っていた「ずっと働けるかもしれない」とは、募集、応募、募集、応募を繰り返していく形なのかと思った。

…(中略)…

APUは、県民・市民の協力で開学できた大学

組…APUは開学前後、別府市が市有地を無償供与し、土地造成費を40億円投入県が施設建設費で150億円を投入し、その他のインフラを整備し、開学した。開学時には市民の批判もあったが、現時点では概ね市民の理解を得ている。現在のところ市民とも良い関係をもっているが、この信頼関係を壊してほしくない。

大…(組合の要求を)決してないがしろにしているわけではない。この問題は、生活がかかっているということも十分分かった上で、今度の多様な雇用形態を進めている。これは、常任理事会その他いろいろ含めて、かなり深い論議をした上で進めている。だから、是非ともAPUの次の発展というものを支えていくような、それにふさわしいような法制度の構築とその法制度の中で先生方の・・・を受け止めたいと思っている。 

組…前回の団体交渉からの発言を見てみると、おそらく多くの人が立命館は嘘吐きだという印象をもったと思う。だから、地域に立命館は嘘吐きだということを触れ回る気にさせるようなことのないように気をつけてください。 
(以上)


投稿者 管理者 : 2005年11月04日 00:07

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