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2006年05月14日

大学人、教育関係者にアピールする 「大学の復権-市井の人々に支えられる...」の著者より

■「意見広告の会」ニュース341(2006.5.10)より

 すでに「意見広告の会」ニュース 339号&340号に大学人、学者、法律家、文化人の教育基本法「改正」(悪い既成事実の積み上げの集大成として出されているから、改悪!)案の国会上程にたいする反対声明、それから全国大学高専教職員組合の取り組みが報じられています。
 このような状況を迎えることは、相当前から予測できたが、大学人の発言、批判の声は小さく、その影響力もあまり大きくありません。
      
 戦後60年、今ほど、大学が学問の府として、学問の自由、言論の自由、思想の自由を抑圧、制限され、また大多数が勤労者である国民、市井の人々(苦難の時代を背負う子供たちも含め)の諸権利と自由、利益(未来に関しても....)、福祉が侵害される方向に進んでいる時代はありません。
      
 何よりも、大学人>知識人の負っている社会的責任の意味、それからこの自覚の上に立つ運動を、この死活の具体例によって啓蒙しなければならないと思います。今の日本の大学(いまや、内閣府の管轄下で体制化された日本学術会議もふくめ)は、国家により強く管理、統制された戦後教育の所産として”心に日の丸、保守的な思想と、手に技術ー専門的知識、研究技能”の単なる専門家集団に堕してしまっているのではないか?言い過ぎでしょうか?
    
 三年前、国立大学の独立行政法人化が目前に迫ったときも、残念ながら大学内部から大きな反対運動が盛り上がらなかった。国会情勢が緊迫した感のある2003年の春だったか、ある日のお昼休み、安田講堂の前庭で開かれた東大職員組合が主催の独立行政法人化に反対する集会を見聞し、その運動の低調ぶりにがっかりしたことを思い出します。 東大ですらこれだから..が実感でした。東大構内に、アピールの立て看板も、張り紙も見られませんでした。
      
 大学人として批判的精神を持たないか、あるいは国策に反対しても無駄(骨折り損をするだけ....)、国策に従順に従いできるだけ実(予算の獲得、研究環境の改善...)をとった方が賢明という、団塊の世代に共有されている価値観、功利的なイデオロギー*が、日本の学術、高等教育の根幹をなすと言われてれている国、公立大学にも広く蔓延しているのでしょう。

  * 「団塊の世代へ」寺島実郎 元三井物産.....現在「日本総合研究所会長」 朝日新聞 2006年4月4日夕刊

 筆者が今回、「意見広告の会」ニュースに投稿する気になったのは、戦前、戦中のがんじがらめの思想統制のもと、帝国大学がたどったあの忌まわしい歴史を、行政法人化された国立大学に残るこれからの若いポスト団塊の世代が、もう一度繰り返してほしくないという気持ちからです。

 1950年代のいわゆる保守合同ー>自民党の結成以後、日本国家は教育基本法をないがしろにし、国際化に逆行する国家主導の教育(文部省が下ろす教科の指導要領、教科書検定....)、教育の国家統制(教育委員会の公選制を廃止、教員の勤務評定の実施、教育現場の民主的運営を抑圧する姿勢.)を日教組、革新政党(その当時の..)など政治勢力の強い抵抗にあいながら、一貫して追求してきたと言えるだろう。 その到達点が最近、東京都で露骨に行われている日の丸、君が代の強制。 教育の管理統制を強めることは、一貫して行われたが、肝心の教育の中味は、まったく無責任な、行き当たり場当たりの行政の結果、小学校から大学まで教育崩壊、そして階層間の教育格差の増大を招来している。

 政治的背景は、冷戦の激化により日米安保条約が締結され、日本は米国の極東軍事戦略に組み込まれて、沖縄から北海道までその地理的位置の優位性から、米国の”浮沈空母”としての役割を演ずるようになったことがある。憲法九条をなし崩しに踏み越えた自衛隊の創設、拡充、日本の軍事基地化に対する反対運動は、1960年の安保条約改定に際し、それがピークに達した。 国民にとって、大変不幸なことであるが、このような国際的、国内的政治情勢が、上記のような日本国家の反動的な、世界の流れに逆行する教育政策を誘導したことは否定できないと思う。  

 それは、教育現場の声を無視、抑圧した政.財.官(省庁->教育委員会の縦系統)三位一体の教育統制、教育の 政治化であった。それがどれだけ、ひどい教育現場の精神的荒廃、トータルとして教育の荒廃をもたらしたか、その反省がみられない! そして、多くの教育問題の専門家、識者が批判されているように、日本の戦後教育は、教育の政治化、管理統制の強化と裏腹に、一貫した教育の質的向上、社会の根底にまだ根付いていない民主主義を徹底させること、相当に長い年数を要するが、質の高い教育を通じて西欧諸国と肩をならべることができる市民社会の形成という、国家にとって最重要の課題が、そっちのけにされた。 真の市民社会の形成のためには、個人がきちんとした考え、論理をもって意見を述べ、議論に参加するといった形で、しっかりした教育に裏付けられた”個の確立”がまず前提になるわけだが、上記のように、1950年代から続く日本の教育路線は、これと逆行している。 ”個の確立”は困る、国家にとって不都合だから、今東京都教育委員会が先取りしているような、反動的な教育行政がまかり通っている。 最近、このような縦系統の教師、生徒への締め付け骨な形で行っている教育委員会が、他府県にも現れている。今、政権与党が意図している教育基本法改悪の先取りを意図的に行い、誠実な教師と父兄、日本社会を恫喝しているといっても、過言ではないと思う。

 実際、あのような暴挙(東京都教育委員会の10.23通達など)は、明らかに憲法と教育基本法を踏みにじっているが、文部科学省は「お構いなし」の姿勢である。
 そこへもってきて、今国会に上程されようとしている教育基本法の改正である。改正ではなく、この法案の本質的な側面、意図は改悪であるとみなされる。戦後教育の歴史#1を振り返ってみれば、明らかであろう。昨日の朝日新聞が報じていたが、元文部省閣僚(大臣経験者か?)が、「国策に逆らう教職員組合等を規制するためだ...」とか。 この法案の危険な側面を言い当てているものと思う。

#1 暉峻淑子 「戦後教育を考える」 岩波新書 編集j部編 「戦後を語る」(1995年刊)
  
  上記の教育基本法の改正は、見方を変えれば、未来展望なき財政破綻国家、対米従属国家に忠誠を尽くすよう、愛国心と新日本精神を批判力のない子供に植えつけるのが、目的なのであろう。これは、国際化時代に逆行する大改悪で、戦前と同じような教育の国家統制、思想的鎖国かもしれない。このような重大問題に対し、国立大学や学界からの勇気ある批判、発言がほとんで出てこない(#2)。そうならないように、行政法人化され、「...党文教部会」ー>内閣府ー>文部科学省...など政治的、縦系統にコントロールされているのが、残念ながら、今の日本の大学、学界の実態であろう。
     
#2 しかし、最近読んだ岩波新書の一冊 西原博史 著「良心の自由と子供たち」は、少々重たいが大変優れた本である。著者に深い敬意を表します。

 確かに、そういう面もあるが、なによりも現在の日本の大学で指導的立場に立っている教授達の多くは、団塊の世代が多い 思われるが、一市民として、また知識人としての”社会的責任”といった概念を持ち合わせて居る人は、非常に少ないのではないか? 要するに戦後も続く国家の教育管理、統制が、独立した市民として「個の確立」を回避する集団主義、あいまいな社会的雰囲気の中で生きる物言わぬ知識層の”経済主義”、”私生活主義”を醸成するのに大いに役立った結果であろう。

 最後に、著者が2003年に出版した「大学の復権―市井の人々に支えられる科学と高等教育の再興」(学会出版センター)の「まえがき」を引用する。

 「残念ながら、現在の日本が陥っている危機―経済、財政、政治、社会(失業率の増加、犯罪の激増)、教育崩壊―を見ると、戦後日本の経済的成功の裏面に、教育に強い管理、統制が加えられたことや、長期的な視野を持たない場当たり的な教育行政の集積からくる歪み、限界があったということである。
 55年体制のもと、自民党政権がとってきた教育政策は、憲法と教育基本法の精神にそって、社会の根底に民主主義を徹底させる、国民の知的、文化水準をひき上げる、自然科学に対する興味.関心を高める、国民の幸福.福祉を増進すること、そして男女をとわず真実、個人を幸福にするという観点ではなかった。それはおおむね、産業や財界の利益を優先する、経済成長優先の路線にそったものであった。子供たちに近代日本の歴史の真実を教えることを回避し、政治批判や体制(社会構造)にたいする批判を抑える、復古的な民族意識を称揚し、ついに、日本軍国主義の侵略の旗印としてアジアの諸国民の反感が強い日の丸、君が代を国旗、国歌として、法制化するにいたるのである。」
 
それからもう一つ、別の箇所に[*著者注]として書いたことを引用する。
 「現に憲法改正の前段として、国民の意識改革を求める改憲勢力が、戦後教育の背骨とも言うべき「教育基本法」の見直しを提起している。文部科学省のもとにある中央教育審議会が、2003年3月20日に発表した答申の骨子は、新たに付け加えるべき理念、原則として、日本の伝統文化の尊重、愛国心の涵養、公共(国家の言い換えであろう)に主体的に参加する意識や態度の涵養を挙げている。
 国の象徴としての天皇をいただく日本国家に対する忠誠心を植えつけ、心豊かでたくましい日本人の育成を目指すのに、どうしても「教育基本法」の改正が必要だというのが、改正論者の主張である。
 戦前の日本は、教育を国家が管理、統制し、天皇に身命をささげ、国家に忠誠をつくす皇民思想を吹き込む、徹底した軍国主義教育を施した。このことに対する深刻な反省が、いまの「教育基本法」の中に込められている。したがって、「教育基本法」は戦後教育の背骨であり、憲法と並んで極めて重要な価値を持つ。
 
 著者は、この重要な「教育基本法」を守る学者、教育者、市民の運動が、日本の中央集権的な政治体制を変えて、徹底的な社会の民主化をはかる運動に接続し、発展することを願っている。」

終わり

投稿者 管理者 : 2006年05月14日 00:00

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