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2006年07月03日

なぜ、日本の大学の学費が高いのか?-二〇〇六年問題を前にして-

■「意見広告の会」ニュース351より

なぜ、日本の大学の学費が高いのか?-二〇〇六年問題を前にして-

池内 了(いけうち さとる、総合研究大学院大学)

  
高学費の根源
 表題への解答は単純簡明に答えることができる。日本の高等教育に対する公財政支出が少ないから、の一言につきるからだ。高等教育費の対GDP比率の国際比較を行うと、日本は〇.四八%にしか過ぎず、OECD諸国の平均の約一%の半分以下でしかない(二〇〇四年度実績)。フランスやドイツの一.〇%、アメリカの一.一%、イギリスの〇.八%と比べると有意に少ないのだ。因みに、これらの国々の高等教育(大学・短大段階)の在学率(=在学者数/当該年齢人口)はいずれも五〇%前後で日本とほぼ同一である。(対GDP比率は、国ごとの財政システムが異なるので単純比較が困難な側面もあるが、投資額として意味がある数値と考えてよい。)
 その結果として、アメリカとカナダの教育政策研究所の調査「グローバル高等教育ランキング2005」によれば、先進諸国・地域一六カ国の学費・生活費・奨学金を基にした国際比較では総合で日本は最下位となった。つまり、公費による負担は最も少なく(わずか一三.一五%)、私費負担が最も重い一六位であったのだ。日本では私学が多く(学生数の七五%が私学)、私学への公費支出が少ない(経常費補助率は約一二%)状況を考えると、私学の学生の私費負担はさらに高いと言わざるを得ない。(学生一人当たり公費支出額の公私の格差は三〇対一になっている。)実際に、国民一人当たり個人消費支出に対する授業料の割合は、国立大学が四五.三%、私立大学が七〇.二%(二〇〇三年度実績)で、まさに「経済的格差による教育上の差別」が生じているのだ。大学進学率がこの数年四九%で頭打ちになっているのは、格差社会が常態になり、国民の階層分化が生じているためと考えられる。
 このような異様とも思える日本の高等教育の高学費の根源は、まず日本政府の「国家に教育権がある」との姿勢にあるだろう。一八八六年の「帝国大学令」第一条の「国家の枢要に応ずる学術技芸を教授」以来、百年以上経ってもその基本姿勢は変わっていないのだ。現に、一九九七年の文部省(当時)から大学審議会に出された「諮問」でも、「我が国全体の知的ストックの形成による国力の維持」と「新規産業創出分野などへの人材受容への配慮」を求めており、国家に寄与する人間の養成が大学の第一目標なのである。国民の誰しもが能力に応じて教育を受ける権利がある、という「国民の教育権」の思想は無視されたままと言えよう。

無償教育の漸進的導入
 そのことは、国際連合が一九六六年に採択した国際人権規約(社会権規約)第一三条(教育に関する権利)の2項(c)に対する、歴代日本政府の態度からも推し量ることができる。この項は、「高等教育は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、能力に応じ、すべての者に対して均等に機会が与えられるものとする」と定められている。その根源には一九四八年に採択された世界人権宣言第二六条の「すべての者は、教育についての権利を有する。(中略)高等教育は、能力に応じてすべての者に対して均等に機会が与えられるものとする」があり、経済的格差による教育上の差別がないよう配慮することが求められたのだ。それに従い、先進諸国では各国なりに高校や大学における「無償教育の漸進的導入」の努力を続けてきた。それが高等教育への公財政支出となって現れているのである。
 ところが、日本政府は一九七九年に国際人権規約を批准したのだが、「『特に、無償教育の漸進的導入により』に拘束されない権利を留保する」と宣言し、現在もなおその態度を堅持し続けている。その結果として、家庭の経済事情によって大学進学を断念する学生が増えているなど、経済的格差による教育上の差別が生じているのだ。社会権規約を批准している国は一五一カ国あるのだが、第一三条2項(c)を留保しているのは、ルワンダとマダガスカルと日本のみなのだ。(アメリカは、例によって国際規約によって縛られることを嫌い、社会権規約のすべてを批准していない。)
 これまで度々国会でこの問題が取り上げられてきたが、日本政府が固執する留保の理由は、私学の比率が高いので公立との均衡をとるのは不可能であり、進学率が高まり財政的に達成できない、というものである。一気に「無償」は不可能ではあるにしても、授業料免除制度の拡充や奨学金の充実など「漸進的」な施策はいくらでも取りうるのに、留保することによってそのような努力もしないと宣言していると言えよう。実際、初年度納付金は、一九八五年を一〇〇として、二〇〇三年度は国立大学で二一五.八、私立大学で一四一.六となっている。この間の物価上昇率は一一三.九であったことを考えると、政府は無策のまま高学費を容認しているのである。
 参考のために、大学入学者の初年度納付金を書いておく。私立大学平均(二〇〇四年)では、授業料、入学金、施設設備費の合計で、文系一一四万円、理工系一四〇万円、薬学系二二四万円、医歯系五〇六万円、である。国立大学は、二〇〇五年の授業料値上げによって、入学金と併せて八一七八〇〇円となった。(私が大学に入学した一九六三年では一三〇〇〇円であった。なんと、六三倍である。当時、一万円あれば一ヶ月楽にやってゆけたことを考えると、学費の異常な高騰ぶりがはっきりとわかる。)
比較のため、簡単に諸外国の学費・奨学金事情を述べておこう。イギリスでは、受益者負担原則が導入されて約二〇万円(二〇〇六年から最高六〇万円)の授業料が徴収されるようになったが、卒業後後払い制度と授業料免除(四割の学生)が認められている。また、貸与奨学金の返済も年収が三〇〇万円を超えた時点からという粋な制度となっている。ドイツは無償であったが、大学教育行政が州政府権限となって有償化(五年以上の在学者から徴収)される見込みである。一般にアメリカの学費は高いと言われているが、連邦政府の給与・貸与の奨学金は七四四億ドル(八兆五千億円、二〇〇〇年)で、学生全体の七割が奨学生となっている。(日本の六八二〇億円(二〇〇四年)と比べ一〇倍以上の差違がある。)スカンジナビア諸国、デンマーク、フランスの授業料は無料である。いかに日本の学生が高学費を強いられ、安い奨学金しか措置されていないことがわかるであろう。


私学補助に関して
 私学への公費助成に関して、憲法によって禁止されているという言説がある。その出所は、二〇〇五年三月参議院予算委員会において、小泉首相が憲法第八九条「公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し公金の支出は禁じられていること」を持ち出し、私学への公費助成に消極的な姿勢を示したことにあると思われる。しかし、これは憲法の精神を踏みにじった曲解である。私学が公共的な性格を有していることは既に認められた事実であり、決して「公の支配に属しない」事業ではないからだ。現に、一九五〇年から施行された私立学校法には「私立学校の特性にかんがみ、その自主性を重んじ、公共性を高めることによって、私立学校の健全な発達を図ることを目的とす
る」と書かれ、私学の公共性が認知・奨励されているのである。
 さらに、一九七五年に成立した私立学校振興助成法では、「国は、大学又は高等専門学校を設置する学校法人に対し、当該学校における教育又は研究に係る経常的経費について、その二分の一以内を補助することができる」としており、私学への公費助成は憲法と整合的に行使されてきたのだ。であればこそ、私立大学も国が認可した認証評価機関の認証を受けなければ廃校もあり得ることを許容しているのだ。(なお、この私立学校振興助成法成立時の国会付帯決議には、「できるだけ速やかに二分の一とするよう努める」という文言も付されている。現在の私学への経常費補助率が約一二%であることを考えれば、いかに国がサボっているかがわかろうというものである。)

受益者負担の原則?
 その根底には、高等教育を受ける学生は「受益者」であるとみなしていることにある。そして「受益者負担が原則」などという言辞が政府や財政当局者から出され、それに従わされているのが現状だろう。法律用語では「受益者」とは、「特定の公共事業の施行により特別の利益を受ける者」と定義されている。従って、「受益者負担」は「特定の公益事業に必要な経費に充てるため、その事業により特別の利益を受ける者に負わせる負担」となる。教育は特別な利益を個人にもたらすから、教育に関する経費は自己負担せよ、というわけだ。
 しかし、教育は特別な個人の利益のみなのだろうか。本来教育は、人権の一部であり、発達保障のためになされるものである。また、未来の社会・経済を担う人間を養成する公共的な性格も持っている。すべての人に能力に応じて必要かつ適切な教育を平等に保障するのが国家の義務であり、家庭の経済的な格差による教育上の差別がないように措置されるべきなのである。
 百歩譲って、高等教育を受けた者が受けていない者より生涯賃金が多いから受益者であるとしよう。しかし、高等教育を受けたいと望む人間は、未来の受益者であって、その段階ではまだ利益は発生していない。「特別の利益」を得るようになってから負わせるのが本来の受益者負担ではないだろうか。例えばイギリスでは、授業料の卒業後払い制度を導入しており、貸与奨学金も卒業後年収が一.五万ポンドを超えた時点から返済開始すると決められている。利益の発生後の負担を原則としているのだ。
 むろん、私は高等教育の無償教育を直ちに実行せよと言うのではない。高等教育の公共性を認め、せめて高等教育への国家予算を先進国並に引き上げるべきことを主張しているのである。まさに「漸進的」に無償教育に向かって努力するのが政府の成すべきことと考えているのだ。誰でもが経済的な問題の懸念なしに高等教育を受けられるようにすることこそが国家の役割であり、入口のところで「機会不平等」を課すべきではないのである。またイギリスの例を持ち出せば、年収一万ポンド以下の低所得家庭の就学困難学生を対象に年額一〇〇〇ポンドの奨学金給付を行い、授業料免除を受けている学生が四割にもなる。授業料を徴収しているイギリスでも、経済的困難者にも高等教育を受ける権利を保障しているのだ。
 ところが、国立大学法人移行二年目で授業料標準額を値上げし、日本学生支援機構(かつての日本育英会)は半分以上を有利子奨学金とすることになった。競争原理に基づく経済論理に従った大学経営が貫徹されようとしているのだ。このままで行けば日本の大学の高学費・高負担はまだまだ続きそうである。

変化の兆し
 しかし、変化の兆しはある。中央教育審議会の二〇〇五年一月二八日の答申「我が国の高等教育の将来像」において、「学生個人のみならず現在及び将来の社会も高等教育の受益者である」という認識を初めて示したのだ。社会も受益者として位置づけ、高等教育の公共性を広言したことになる。そこから必然的に、「高等教育への公財政支出の拡充」を行い、「公的支出を欧米諸国並みに近づけていくよう最大限の努力が払われる必要がある」と述べるに至った。学生の納付金が国際的に見ても高額化しており、「高等教育を受ける機会を断念する場合が生じ、実質的に学習機会が保障されないおそれがある」という現実を認めざるを得なくなったためだろう。私立大学に対しても、高い公共性を持つと評価し、基盤的経費の助成を進めるべきことも言及している。中教審委員にも、余りに貧弱な高等教育政策に苛立ちの気持が出てきたのかもしれない。(もっとも、一九七一年の答申でも「公費負担の強化」を謳ったけれど体よく無視された経緯がある。)

二〇〇六年問題
 もう一つ重要なことは、二〇〇一年九月に国際連合の社会権委員会は、「日本政府に対する最終見解」をまとめて「提言及び勧告」を行ったことである。そこでは、日本政府に対して、国際人権規約第一三条2項(c)(「無償教育の漸進的導入」)の「留保を撤回する意図がないことに特に懸念を表明」した上で、「留保の撤回を検討することを要求」し、「報告を二〇〇六年六月三〇日までに提出し、その報告の中に、この最終見解に含まれている勧告を実施するためにとった手段についての、詳細な情報を含めることを要請する」となっている。国連の組織からの要請事項であり、日本政府は回答する義務があるのだ。ところが、経済大国と言われる日本として留保継続は恥ずべきことであるが、現在のところ変化はなさそうである。(これでは常任理事国入りも無理であろう。)
 これに対し、有志によって「国際人権A規約13条の会」を発足させ、日本政府に対し、期日までに「無償教育の漸進的導入」の留保撤回を要求している。これを「二〇〇六年問題」と呼び、全国各地の取り組みや国連人権(社会権)委員会への働きかけを強めてきた。(留保撤回にならない場合、引き続き会を存続させ運動を継続する所存である。)多くの方々の参加を望みたい。(事務局は、龍谷大学角岡研究室。)

おわりに
 日本社会は勝ち組と負け組に分化し、厳しい格差社会になろうとしている。その中で、文化を継承し発展させる上で不可欠の教育まで市場原理にさらされ、経済的格差による教育的上の差別が顕在化しつつある。「教育が人格の完成及び人格の尊厳についての意識の十分な発達を指向し並びに人権及び基本的自由の尊重を強化すべき」(国際人権規約第13条)であり、経済的理由で教育を受ける権利を奪われることがあってはならない。しかし、日本は、特に高等教育の高学費の負担によって、学ぶことを断念する若者も増えている。これは将来の日本にとっても由々しき問題と言わざるを得ない。
 その基本的解決には、公的予算を増やして個人負担の割合を下げていくことであり、「無償教育への漸進的導入」を日本政府に認めさせることである。そのことを強く訴えたい。

参考文献
 本原稿は、田中昌人『日本の高学費をどうするか』新日本出版社を参考にした。また、いくつかのデータは、シンポジウム「日本の高学費をどうするか」(二〇〇五年一二月二二日開催、龍谷大学)の資料(国際人権A規約一三条の会事務局作成)から採った。 


投稿者 管理者 : 2006年07月03日 00:01

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