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2006年10月31日

歴史学研究会、教育基本法の「改正」案の廃案を求める声明

歴史学研究会、教育基本法の「改正」案の廃案を求める声明
■「意見広告の会」ニュース365より

教育基本法の「改正」案の廃案を求める声明

 日本国憲法と教育基本法は、戦後の民主主義の基本理念を示すものとして、成立後60年近くを経過した現在でも、その輝きを失っていない。戦前の「教育勅語」に基づいた皇民教育によって「臣民」が育成され、これを基盤として戦争が遂行されたことは、教育のもつ重要性と危険性を広く認識させた。そして教育基本法は、民主主義と平和を基軸とした教育の理念を語るとともに、教育内容に国家が介入することは適切ではないという、戦争の反省をふまえて制定されたものであった。
 ところが、このような教育基本法の理念を改め、具体的な教育内容に踏み込んで、教育の統制を進めようという企てがなされてきており、教育基本法は現在大きな危機にさらされている。4月28日、政府は「教育基本法改正案」を閣議決定して国会に提出したが、この「改正案」は、現行基本法の部分的修正・加筆ではなく、全面的改訂に近いものであった。通常国会は6月18日に閉会し、この議事は継続審議となり、10月25日に審議が再開された。この「改正案」は、以下にみるように大きな問題を抱えており、歴史教育についてもその自由を大きく束縛しかねない危険性をもっている。このような「改正」は到底容認できるものではない。
 現行の教育基本法では、教育の方針について「教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない」(第2条)と述べているが、「改正案」ではこれをすべて削除し、「教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする」としたうえで、具体的な内容(徳目)を五項目にわたって列記している。そしてその最後の第五項に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」という一文が配される。これは「我が国や郷土を愛する」という、人々の心の内面にまで一定の方向づけを強要するものであり、他国を尊重するという後段部分が配されているからといって看過できるものではない。また愛国心とともに郷土愛を併置したことによって、愛国心の強制のニュアンスを弱めているようにもみえるが、これも重大な問題をはらむ。かつての「教育勅語」の時代においても郷土愛の涵養が叫ばれたが、これは郷土愛によって国家を相対化するというものではなく、「愛郷心は愛国心の基盤をなす」という発想によって遂行されたものであった。こうした過去の実態を考えるならば、国と郷土を愛することを徳目の一つとして掲げることは大きな問題を含むといわざるをえない。
 また、これらの「国や郷土を愛する」ことをふくむさまざまな「徳目」は、それぞれについての「態度を養う」という形で教育方針が示され、その達成度が計られることになる。つまり、このような教育目標は、家庭教育・義務教育・学校教育の場において、さらには大学・私立学校などでも設定され、親や教員は目的達成のために努力しなければならないという構図になっている。特に教員に関する部分では、「法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない」(第6条)と現行法にあるものを、「全体の奉仕者」という文言を削除して「法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない」と改められている。これとあわせて「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」という条文(第10条)も「国民全体に対して直接に責任を負って行われるべきものである」の部分が「この法律及び他の法律の定めることにより行われるべきものである」へと変えられている。教員は政府の奉仕者ではなく「全体の奉仕者」であって、教育は「国民全体に対して責任を負って」行われるべきであるという現行法の理念は「改正案」では全く消失し、教育は「この法律及び他の法律の定めるところ」によって行われ、教員もこの法律に定められた徳目を教えることを「自己の崇高な使命」として自覚せよ、という形になっているのである。つまり「改正案」においては先にあげた五項目の「徳目」の達成こそが教員の使命であり、法律上の目的達成のために尽力せざるをえなくなる。「改正案」を通して見ると、政府が教育を道具としてとらえていることは明らかであり、そこから外れる真理や真実を語ることを抑圧していく恐れがある。
さらに、「改正案」の末尾には、「政府は、教育の振興に関する施策の総合的かつ計画的な推進を図るため、教育の振興に関する施策についての基本的な方針及び講ずべき施策その他必要な事項について、基本的な計画を定め、これを国会に報告するとともに、公表しなければならない」(第17条)という形で、教育の内容を政府が統制し、そのための施策を講じることが明示されているのである。
 そもそも教育は個々の「われわれ」の自由な工夫と努力によってなされるもので、その内容は法律によってしばられるべきではない。また自分で思考し判断する、「ものを考える」力をつけることが教育の目標であり、国家が個人に対して特定の「態度」を養わせようとするというのは教育目標としてはふさわしくない。思考を鍛えるという課題を歴史教育も負っており、ことに「国を愛する」ことを強要した教育が何をもたらしたのか、歴史研究や歴史教育に携わるものとして深く省みないわけにはゆかない。愛国心の涵養を求め、国家や政府による教育内容の統制を正当化する「教育基本法改正案」の廃案を強く望むものである。

2006年10月27日
歴史学研究会委員会


投稿者 管理者 : 2006年10月31日 00:00

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