個別エントリー別

« APU常勤講師解雇事件、大分地裁の決定に対する弁護士見解 | メイン

2007年01月16日

横浜市立大、進級基準TOEFL500点問題で臨時教授会を開催すべき

大学改革日誌
 ∟●最新日誌、1月15日(2)

 横浜市立大学が大学改革の目玉として上から導入し,進級の条件として設定したTOEFL500点問題について,この間「大学改革日誌」では精力的に学生を含む学内の意見を取り上げている。下記に最近の記事の一部を紹介。

 なお,この問題について最近の記事は以下の通り。
横浜市立大、2年生半数 留年危機 英語力検定が壁
横浜市立大、TOEFL500点問題 そこまで教員集団を無視できるのか?
横浜市大厳しすぎた? 進級要件 2年生半数超 留年の危機
横浜市立大、ずるずる放置しておいていい問題ではない
横浜市立大、これが学生本位か
「TOEFL500点問題」で、破滅に向かってひた走る横浜市立大学(「学問の自由と大学の自治の危機問題」より)

 先週、臨時教授会を開催してきちんと問題を総合的に議論し決定すべきではないかと、わたしの考えを何人かの教員に差し上げた。かなり多くの賛同があったが、他方では、すでに紹介したように、臨時教授会の開催に懐疑的・消極的な意見もあった。
 研究と教育を基礎で担う一般教員からの、そして当の学生さんたちからの声を踏まえて、代議員会等での議論が展開し、その上で、臨時教授会での審議要求へともっていけばという意見もかなり寄せられた。

 二つほど、抜粋的に意見を紹介しておこう。

---①-----
先生からのメールの確認が遅くなり返事がすぐ出来ませんでした.
進級判定に関する臨時教授会の開催に賛同します.

臨時教授会開催の実現は難しいかもしれません.

当面の語学の問題に限らず,本学が抱えている様々な問題について
教員や学生の意見を何らかの形で大学当局に訴えていくことは必要と考えています.
その意味で今回先生が提起された臨時教授会の開催に賛成します.

語学教育については様々な意見(それぞれがそれなりの説得力がある)があり,
意見を纏めるのは大変ですが,当面の留年問題について意見を出し合い我々が何を
しなければいけないかを確認するいい機会になると思います.

TOEFL(TOEIC)の問題について一言:
試験で500点以上をとることを学生の努力目標にするだけでよいというのが
私の予てからの考えです.語学は持続した学習が必要で,1度だけ500点以上の
成績を得たというだけで進級させるというのも変な話です.この制度が大学改革の
一つの特色というのが,何とも情けない.
---②------
トーフル問題についての問題認識は多くの先生方の間に共有されていると思います。段取りとしては、まず代議員会で問題提起をしていただき、「権限外だから対応できない」というような消極的回答であれば、教授会開催要求を行うというのではいかがでしょうか。
----------- 

 「語学は持続した学習が必要」というのは、意欲的な学生の声でもある。ある親しい学生は1年生の7月にTOEICで基準をクリアしたが、「TOEICの実力の有効期限は1年間か2年間(?)なので、またチャレンジし、力を維持すると同時にアップしていきます」と。まさにそのとおりであろう。

 その方向で実力を不断に伸ばそうとする人に、その到達度に応じて、大学の中で環境条件を整備してあげる、ということはきわめて重要である。
 TOEFL550点以上クラス、あるいは国連英語検定を目指すクラスなど、意欲があり、国際的活動を目指す諸君にはそれにふさわしいクラスを設定し援助する、しかるべき単位を与えることもいいであろう。

 それは、画一的基準で留年させる、などという寒々しい官僚的統制的な発想とは逆のものである。

 全学生に対する画一的基準の押し付けの発想は、一般教員全体に対する寒々しい「全員任期制」の押し付けと同じ発想である。これには、「改革」全体の問題面を象徴するものとして、非常に強い反対が教授会などで示された。この問題を中心的問題として、抗議辞職をした教員(次の職場もないのに)、他大学に移った教員も多い。「全員任期制」の画一的押し付け(大学教員任期法に反するもの)には、苦しい状況の中で多くの教員が教員組合に結集しつつ、また個々人でも、断固として反対してきたのである。
 「全員任期制」問題で苦しめられた人々には、そのことが直ちに理解されるであろう。

 「一つの特色というのが,何とも情けない」という点に関しては、現在のPEの特権的例外的独裁的制度を、だれ・どのような人々が案出し、だれ・どのような人々がそれによってメンツ・地位・権益・発言権・優越感・自信などを得ているか、誰が特権・独裁権力を行使しているのか、という側面からも考えてみる必要があろう。

 すくなくとも、現在の入試制度で堂々と総合力で入学してきたために、英語が相対的に苦手、という学生諸君ではないことは確かだろう。総合的に見て、学生諸君に責任はない。責任があるのは、制度を設計した側、制度を運営する側にある。

 学生諸君との関係で言えば、わたしのような一般教員も、大学側の一人、制度運営の側である。だからこそ、一教員として、制度検討・制度変更が必要だという意見を公開し、わたしの意見に耳を傾けてくれそうな教員に働きかけてもいる。それが、制度設計をした人々、制度設計に責任ある人々に影響を与える(政策・制度の合理的合法的転換)ことを願って。

 制度を設計した人々、制度を運営している人々は、主観的には、悪意や優越感のためにやっているのではないだろう。その意味では、「良かれと思って」、「善意で」あろう。

 しかし、「地獄への道は、善意で敷き詰められている」(ダンテの言葉とされる)。ヒトラーも、主観的には、「民族のため」、「民族の自由のため」、「民族を愛するため」にすべてを行った。600万のユダヤ人大量虐殺も、彼の主観(善意)においては、「ドイツ民族のため」、「ドイツ民族に感謝されること」だった。

 学生諸君、堂々と入学したのだから、そしてそれぞれの力量・個性・希望・問題関心に従い勉学に励んでいるのだから、萎縮する必要はない。老婆心までに。

 元気をつけたい人は、『国家の品格』など、日本語の本質的基軸的重要性を説く自信に満ちた藤原正彦の一連の本を読んだらどうでしょう。新潮文庫にある8冊を一気に読めば、相当に刺激を受け、自信をもつことができよう。

 なお、付言すれば、大人の社会、教員の世界も、、その仕事(労働)に関しては、各人の能力・業績に応じて段階的な評価システムとなっています。
 
 年功序列が最近では批判されますが、「年」齢に応じた能力の発達、さらにその成長段階での業績(「功」)の上昇は、普通の人間のそれぞれの分野での大量法則としては、妥当するものです。わずかずつとはいえ、右肩上がりというのは原則的方向性です。

 「同一労働=同一賃金」の商品交換社会の原則は、各個人の労働の段階的成熟に応じて賃金に対応させ適合させるべきものであり、仕事(労働)とその対価としての賃金・給料の関係に、大数法則的には反映させるべきだということになります。

 成績評価における段階的評価は、能力とその発揮の段階的発達が大数法則的には貫徹している、ということをしめしているのではないでしょうか。

 もちろん、学生諸君のTOEFLの成績の上昇の度合い(英語力上昇の度合い)が、各人によって違うように、われわれのような大学教員でも、研究教育力の上昇の仕方は違うでしょうし、上昇のスピードも多かれ少なかれ違うでしょう。(社会一般に、同分野・同業種の人々との社会的相対的スペードの違いも問題となるでしょう)。
 その違いをどのように評価するか、これが、教員評価と給与制度の問題として、教員組合の検討対象に、そして、労使交渉の課題となっています。

 学生諸君もわれわれ教員も、そして一般の市民も、自分たちの努力(労働)とその成果が正当に反映される(評価される)ことを望む点で、その原則的な見地で、連帯しうるでしょう。
 ここにこそ、学生と教員の、そして市民の連帯の基盤があると考えます。


投稿者 管理者 : 2007年01月16日 00:00

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://university.main.jp/cgi4/mt/mt-tb.cgi/2972

コメント