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2007年8月 3日

日本の高等教育費問題、2007年を迎えた「2006年問題」-研究の動向と問題解決に向けた連帯の広がり-

■大学評価学会通信、第14号(2007年7月25日)より転載

2007年を迎えた「2006年問題」
-研究の動向と問題解決に向けた連帯の広がり-

細川孝(龍谷大学、経営学)

1.「2006年問題」と大学評価
 2006年6月30日は、日本の高等教育にとって特別な位置づけをもつ日であった。日本の高等教育のありようが国際社会から転換を迫られているという意味においてである。それは、次のような事情をさしている。
 国際人権規約(社会権規約)に規定される中等教育および高等教育における無償教育の漸進的導入について、日本政府は、1979年の批准の際に、「拘束されない権利を留保する」とした。国会では1979年5月(衆議院)、6月(参議院)の外務委員会で「留保については諸般の動向をみて検討すること」が、全会派によって附帯決議されている。さらに、1984年7月には、日本育英会法の審議に際し、衆議院と参議院の文教委員会で「諸般の動向をみて留保の解除を検討すること」が、全会派によって附帯決議されている。
 国連の社会権委員会は、2001年8月31日付けの「経済的、社会的および文化的権利に関する委員会の最終見解―日本―」において、「拘束されない権利の留保の撤回を検討することを要求する」とし、日本政府に対して2006年6月30日までの報告に「この勧告を実施するためにとった手段についての詳細な情報を含めることを要請する」とした。
 さて、この「2006年問題」に対する社会的な関心を高める上で、主導的な役割を果たされたのが田中昌人氏である。氏の研究は『日本の高学費をどうするか』(新日本出版社、2005年)にまとめられている。通常、「2006年問題」は、新学習指導要領の下で学んだ新入生の「学力低下」問題として、あるいは大学全入時代の到来との関わりで、語られることがしばしばであるが、田中氏が指摘されたのは「もう一つの」2006年問題であった。
 この小論では、まず、田中氏の『日本の高学費をどうするか』以降に公刊された3人の論者の研究を紹介する。それは、田中氏が指摘されるように、日本の大学評価を考える上で、世界的に見て異常な高学費の問題は、避けて通ることのできない問題であるからだ。田中氏は次のように述べる。
 大学の経営基盤を支えつつ、大学における無償教育の漸進的導入を行うためには、国内総生産費や一般政府総支出に対する大学教育への予算支出額が先進諸国30カ国の中で最低位にある現状を、他国並みの水準にするために2~3倍に引き上げて、公私の格差をなくす必要があります。大学で学ぶ学生や、そこで研究教育とその業務にあたる教職員に起きている人権侵害や経済的条件などによる格差の是正を図って、条件を整えることが出来るかどうかが大学評価の基本です。
 いま弱い立場に置かれている学生の学校納付金を軽減すると共に、入学検定料が払えない学生を受験させなかったり、授業料を納付出来ない学生を退学させるといった制度を、どう改善するのかという視点が中期目標・中期計画には必要です。それに対する第三者評価も行われていないとしたら、それは大学評価として欠陥があるといえます。」(『ねっとわーく京都』2004年5月号に掲載されたインタビュー「いよいよ始まる大学の第三者評価制度 大学評価学会の設立を語る」から)
 続いて、「2006年問題」の解決に向けた連帯の広がりについて紹介したい。それは、国際社会の要請と同時に、問題解決に向けた国内での地道なとりくみが不可欠であるからだ。

 * 田中氏は、「無償教育の漸進的導入」の課題とあわせ、国際連合の児童の権利委員会が、日本における「過度に競争的な教育制度の改革」を行い、「高校を卒業したすべての者が高等教育に平等にアクセスすることを確保する」ように求めて、2004年1月30日に行った勧告に対して、日本政府に2006年5月31日までに回答を求めている問題についても指摘している。しかし、ここでは、「無償教育の漸進的導入」の課題に限って、言及する。

2.日本の高学費に関わる研究動向
『日本の高学費をどうするか』以降の研究としてまず、取り上げたいのは、渡部昭男『格差問題と「教育の機会均等」-教育基本法「改正」をめぐり"隠された"争点』日本標準、2006年、である。本書は、教育基本法「改正」をめぐり隠された争点として、「教育の機会均等」を論点に、と主張する。愛国心、宗教的情操、不当な支配、という「三大論点」に加えて、「教育の機会均等」が重要な論点であるとする
 教育の機会均等は、教育基本法の第3条で規定されてきた(「改正」された教育基本法では、第4条)。著者は、教育基本法の制定当初には綱領的な性格にとどまったものが、戦後における国民要求の高まりと教育運動の展開によって、その性格を変えたと指摘する。すなわち、社会権的な性格を強め、「教育機会の均等保障」へと変わっていったのである。
 「教育機会の均等保障」はさらには、就学権の保障のレベルにとどまるとはいえ、「教育機会の平等化保障」へと到達していることを明らかにする。中央教育審議会の審議では、「教育の機会均等」に関するまともな意見が出されたが、意図的に矮小化され、争点からはずされたことが指摘されている。
 著者は、「経済的格差」の広がりとの関わりで「教育の機会均等」に注目し、「奨学の方法」の充実が要請されていることを指摘している。また、「無償制の漸進的な導入」に関する議論について紹介し、高等教育の無償化について、まずは「授業料不徴収+法定範囲をどこまでとするか」に絞って、議論することを主張している。
 続いて、雑誌『月刊学習』2006年9月号~12月号に連載された土井誠「どうする? 世界一の高学費」である。著者は、まず、最新のデータにもとづき、日本の異常な高学費(世界一の高学費)の実態を明らかにしている。その上で、世界的な学費無償化の動向とその背景としての社会権規約の存在を指摘している。
 日本では、日本国憲法や教育基本法によって、「経済的地位」によって差別が禁止され、国や自治体による手だてが求められている。しかし、急騰する学費と経済格差によって、学ぶ権利が奪われている実態が明らかにされ、さらには、教育費負担の重さが少子化、人口減少の大きな要因になっていることが指摘される。
 著者は、世界一の高学費の背景として、1971年に中央教育審議会答申が打ち出した「受益者負担論」の存在を指摘する。この受益者負担論にもとづき、1970年以降、国立大学の学費は連続して値上げされ、私学助成も抑制されてきたのである。受益者負担論が「経済的地位による差別」の禁止と矛盾することが指摘されている。
 著者は、学費をめぐる情勢と運動、政策について、次のように指摘する。国立大学については、標準額の値上げ阻止が課題であり、私立大学については、私学助成の増額を指摘する。そして、国際人権規約の留保撤回を求める運動の前進と高等教育を社会全体で支え連帯する社会の創造を呼びかけている。
 最後に、戸塚悦朗「高等教育と学問題-日本による国際人権(社会権)規約第13条違反について」(『国際人権法政策研究』第2巻第2号、所収)である。著者は元弁護士であり、長年にわたって国際人権擁護の活動に取り組んできた。近年、「2006年問題」への関心を深め、講演や執筆を行っている。
 本論文の主張は、日本政府の対応は、明確な条約違反ということである。13条2項(b)(c)の批准を求める運動は注目を集めるようになってきているが、高等教育を受ける権利の存否、国際人権法「有無」の検討はなされてこなかった、と指摘する。
 著者は日本政府が留保している部分(「特に、無償教育の漸進的な導入により」)を除く「高等教育は、すべての適当な方法により、……能力に応じ、すべての者に対して均等に機会が与えられるものとすること」については、留保抜きで批准していることに注目する。日本政府が、留保によって法的義務を免れているのは、高等教育を「漸進的」に「無償化」することのみなのである(日本国憲法第98条②「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。」)

3.高学費問題の解決に向けた社会的な連帯と大学創造の課題
 「格差社会」が深刻化する今日、経済的格差によって教育の機会均等が奪われている。「教育における差別」によって職業選択の機会が奪われ、そのことが格差の再生産につながっていくという事態が進行している。このような時に、日本が「無償教育の漸進的導入」に向けての一歩を踏み出していくことは、いっそう切実な課題となっている。
 異常な高学費、そして多くの場合には保護者が学費を負担することによって、学生たちの学びが主体的な営みとなることを困難にしているという問題を改善するという点からも、「無償教育の漸進的導入」は切実な課題と言えよう。商品化されることによって教育は、本来の姿とは違ったいびつなものになってしまっている。教育は本来、人権として存在するのであり、学びの成果は社会に還元されるべきものである。しかし、今日では道具化、手段化され、本来の姿から大きく逸脱してしまっているように思われる。
 今、人権としての高等教育という視点を鮮明にして、国民的な共同を広げることが求められている。
 高等教育関係者の中では、昨年3月12日に、国庫助成に関する全国私立大学教授会連合が主催し、日本私立大学教職員組合連合、全国大学高専教職員組合、大学評価学会2006年問題特別委員会、国際人権A規約第13条の会が協賛したシンポジウムが開催されている。学生の中では、全日本学生自治会総連合が、昨年夏に国連人権小委員会で訴えている。また今年6月23日には、全日本医学生自治会連合が共催し、諸団体(国際人権A規約第13条の会、日本高等学校教職員組合、国際人権活動日本委員会、全国私立学校教職員組合連合、全日本教職員組合、日本科学者会議、日本学生支援機構労働組合、新日本婦人の会)の後援を得て、シンポジウムを開催している。少しずつではるが、共同は広がっている。
 共同をすすめるに際して、特に、教育関係者の連携を重視する必要があるだろう。日本の教育が直面している課題について、高等学校や小・中学校の関係者と問題意識を共有することは、高等教育に関わる者としての責務であるように思う。
 さて、「無償教育の漸進的導入」を求めるだけではすまされない。教育の内容を抜本的に転換するという課題がある。今日直面するさまざまな課題を考えたときに、これまでのような高等教育のありようでいいというわけにはいかないだろう。ユネスコの「高等教育宣言」が指摘するように、「高等教育自体が非常に大きな課題に直面し、かつてない大胆な変革と刷新をめざすことが要求されてい」る。そして、「それによって、現在深刻な価値の危機の真中にある我々の社会が、単に経済性のみを考慮するのではなく、より深い道徳性と精神の広がりをとりいれることが可能になってくる」のである。
 わたしがとりわけ注目したいのは、教育(学生たちの学び)と労働をいかに有機的に関連づけるかということですある(「教育から労働への移行」)。昨今の大学では、いわゆる「キャリア教育」が重視されているが、今日行われているその内容については、十分な吟味が必要であると思う。労働の社会的価値を学ぶ、労働に関する権利を知るなどといった点がもっと積極的な位置づけを与えられる必要があるように感じる。また、学生たちが将来、自覚的な市民として生きることができるような、シティズンシップ教育も不可欠な課題となろう。
 わたしたちの課題を端的に表現すれば、「無償教育の漸進的導入」にふさわしい高等教育機関のあり方を探究するということになるだろう。私立大学に引きつけて考えるならば、私立大学の公共性についての認識を深め、大学のありようを転換するということになるだろう。その際に、大学評価をわたしたちがどのように受け止めていくかが問われている。学会設立時の「大学評価京都宣言=もう一つの『大学評価』宣言」に立ち返って、考えてみたく思っている。


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