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2007年8月21日

第2次琉大事件、歴史の影に目を向けたい

琉球新報社説

 一九五六年に反米的言動などを理由に琉球大学の学生七人が退学、謹慎処分を受けた「第二次琉大事件」で琉大当局は十七日、岩政輝男学長らが記者会見し、処分の取り消しを公式に発表した。
 大学の自治を揺るがした不当な弾圧から半世紀。忌まわしい事件に新たな光を当て、歴史の影の部分と向き合い、大学の歴史に正しく位置付ける作業が始まったことを歓迎したい。
 今年六月の発足以来、事件を再検討してきた調査委員会は、処分学生の行動について「当時の法令および大学の学則やその他の規定に照らしてもこれに違反するとは認められない」と結論付けた。権力を握る米国民政府が介入し、強硬な処分を求められた末の不当処分であったことを認めた。
 当事者らは七十歳を超え、一人は亡くなった。とりわけ退学処分の不名誉な烙印(らくいん)を押された六人にとって、事件の暗い記憶はその後の人生のさまざまな断面でつきまとったに違いない。
 再検討方針が明らかになった直後、ある一人が語った「琉大には青春のすべてがあった」との言葉が重く響く。名誉回復の扉がようやく開かれたとはいえ、費やされた歳月はあまりにも長すぎた。
 ただ琉大当局にとっては、名誉回復措置の検討に際し、現段階では今回の対応以外の策は考えにくかったのだろう。同窓会など関係者の声に耳を傾け、問題を放置せずに真摯(しんし)に向き合った姿勢は評価に値するのではないか。遅きに失した印象は残るけれども「大学人の良心」といったものを感じさせる。
 米軍用地料の一括払いに反対し、島ぐるみ闘争が燃えさかる渦中で起きた琉大事件には、いまだ解明されていない部分が多い。米国に生殺与奪権を握られた中での大学の自治や運営、思想・表現の自由、民主主義の在り方、アメリカの二重基準など学問対象としても多くの要素を含んでいる。
 第一次琉大事件を含め、語り尽くされていない歴史の全容解明に向けた取り組みに期待したい。


琉大事件、処分取り消しは英断だ

沖縄タイムス社説

 米軍統治下の一九五六年八月、反米的言動を理由に退学処分などを受けた学生七人に対し、琉球大学は正式に処分取り消しを決め、本人および遺族に通知した。
 大学が半世紀以上も前の処分行為を撤回するのは極めて異例である。

 処分学生が受けた精神的苦痛を考えると遅きに失した感は否めないが、歴史のかなたに消えかけていた事件を掘り起こし、処分の不当性を認めた大学当局の英断を評価したい。

 軍用地の強制接収と反共政策が吹き荒れた沖縄の五〇年代は「暗黒の時代」と表現されることが多い。

 当時、琉大は布令に基づいて米民政副長官が管理運営の最終的な権限を持っていた。

 五〇年代半ば、米軍による土地の強制接収、地料の一括払いに反対する住民大会やデモに参加した学生は数多い。処分されたのは七人だが、この中にはデモに参加しなかった学生も含まれている。「反米的言動」というだけで、処分理由ははっきりしなかった。

 「第二次琉大事件」の名で呼ばれるこの学生処分は、琉大が「布令大学」であった時期に、米民政府の圧力に屈して、明確な理由もないままに学生を処分し、大学の自治を自ら葬り去った事件だった。

 処分学生の名誉回復を求める教職員や同窓会の声を受け、大学当局は学内に調査委員会を設置し、調査を進めてきた。

 委員会は「処分学生の行動は、当時の法令及び大学の学則その他の規定に照らしてもこれに違反するとは認められない」と明確な判断を下している。

 にもかかわらず大学当局が当時、処分に踏み切らざるを得なかったのはなぜか。調査委員会が指摘するように「米国民政府から強硬に除籍を含む処分を求められ」たからである。

 大学当局は処分に反対だった。学生を処分しなければ大学をつぶすという強硬な民政府の姿勢に抗しきれなかったというのが事の真相だ。

 七人のうち処分取り消し通知書の伝達式に参加したのは三人だけ。処分学生のうち一人は一昨年に亡くなり、残る三人はそれぞれの理由で伝達式への参加を辞退した。

 伝達式に参加した処分学生の一人は「(大学に対する)感謝の念と同時に、なんでもっと早くできなかったのかという思いもある」と複雑な胸のうちを語った。

 大学はこれで終わりとせず、大学の歴史の中にきちんとこの事件を位置づけ、後世に伝えていく努力をしてほしい。


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