研究者の地位と権利を守るための全国的ネットワークをつくろう!

2007年10月 4日

山形大学、天下り学長が示す危機

■「意見広告の会」ニュース427より
大学改革日誌(10月3日)より

天下り学長が示す危機 公共事業化する研究開発

官僚の天下りに、政治家の口利き、そして各種の談合。このトライアングルが税金を浪費する公共事業の基本骨格だが、国の科学技術予算にも、同じ負の構造が浮かんできた。研究教育事業の発注官庁である文部科学省の前事務次官が、受注業者である国立大学法人山形大学長に就任した。究極の天下り。政府の研究開発政策が公共事業化している実態を、これほど明白に示すものはない。

投票結果はライバルに完敗なのに、強引にトップの座についても居心地は良くないに違いない。参院選の大敗後も続投を決めた安倍晋三首相の場合は突然、職責を放り出してしまった。

安倍続投の根拠として、盛んに「参院選は政権選択の選挙ではない」といわれた。法制度上は負けても辞めなくていいという程度の話なのに、自民を大敗に追いやった民意を軽んじてもいいと勘違いしたのが、破綻の始まりではないだろうか。

山形大学の場合は、教職員の投票では、次点だった候補者、一月前まで文部科学事務次官だった結城章夫氏が、外部有識者と学部長らで構成する学長選考会議で逆転選出された。

山形大に限らず、法人化された国立大の場合は、教職員の投票はあくまで参考で、学長選考会議が最終的に決める。この制度は国立大学の法人化に際して、従来の「教職員自治」の継続を嫌った文科省が強く推し進めて導入したもの。実際に、教職員の投票結果とは違う結論が出るケースがいくつも出てきて、滋賀医大、新潟大などでは訴訟になっている。

文科省が力を入れて導入した学長選考法によって、文科省の高級官僚の学長への天下りが可能になったというのでは、語るに落ちたといわれてもしかたない。閉鎖的な教職員の自治を脱して、外部の知恵や感覚を大学経営に反映させたいというのなら、選考会議は公平で透明でなければならない。

山形大の選考会議の外部委員は、結城前次官をスカウトした前学長が指名したのだという。まるで前任者が後継者を決めて、それを会議が承認するかのような不透明さが、お手盛りという批判を浴びている。

結城氏自身も、伊吹文明文科相も、文科省やその職員が学長就任を働きかけたのなら別だが、個人が応募して正統な手続きで選ばれた以上問題ない、と天下りを否定している。

だが、これは国土交通省の事務次官がゼネコンの社長に就任するのよりもっと直接的な天下りといっていい。国家公務員法で、直接的に利害関係のある企業等への再就職は退職後二年間は制限されている。文科省はいまや地方国立大学の生殺与奪の権限を手にする官庁である。

プライドの高い大学人は、学問的な業績のない行政官が、大学の学長や理事になるのは「天上がり」だというかもしれないが、そういうプライドなら早く捨てた方がいい。国立大学が法人化されて、文部科学省は運営費交付金のさじ加減から、大学評価、競争的資金の配分、そして人事まで、大学への支配力を飛躍的に高めている。

八十七の国立大学法人のうち、五十を超す大学が事務局長を役員の理事とし、文科省から受け入れている。三年前の法人化で、経営に余裕のない地方国立大学が、こぞって文科官僚を理事として迎えることは予測されたが、旧帝大などの有力大学も戦略的に、文科省との関係を強めている図が見てとれる。

まさに国立大学から文科省立大へのまっしぐらの中で、天下り学長騒動は起きた。今回は医学部が一丸となって結城前次官の学長就任に動いたことから、重粒子線治療装置など大型医療施設の山形大への誘致計画が背後にあるのではないか、という指摘もされている。

重粒子線治療装置については、他の国立大学に導入された際にも、学術振興より地域振興などへの政治的配慮が大きく働いたのではないか、ともいわれた。この分野は肝心の医学的な研究や検証よりも、公共事業として議論されることが多いのが気になるところだ。

閉鎖的な独善を排し、自立的で開かれた大学をどうつくるのか。「研究バブル」の潤沢な予算、目前で揺れるニンジンに飛びつくと、大学人の自由からの逃走という図が見えてくる。


|