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2008年05月08日

横浜市立大学教員評価問題、審査の信頼性を失わせる点で謝礼授受問題と同じ

大学改革日誌
 ∟●最新日誌(5月7日)

 学位審査(学位論文の評価)問題を一般的な業績審査(業績評価)問題と関連させてみれば、全教員にかかわる問題として浮上しているのが、教員評価の問題である。

 教員の業績をどのように評価・審査するのか、誰が評価・審査するのか、これが問題となる。

 お手盛り評価・お手盛り審査はだめ、内部の権力者による評価・審査(恣意的・非客観的な評価・審査)はだめ。「お手盛り」や「恣意的評価」は、「便宜供与」と本質的な意味合いにおいて違うものか?

 今問題になっている医学部関連で言えば、親子関係、親類関係で学位審査を行ってはならない、それは学位審査の信頼性を崩壊させる、とすれは、管理職による非公開評価はどうなるか?

 SDシートなるものが昨年、当局の非常な圧力の下で強行されたが、Self Developmentの諸項目の妥当性・問題性、それを管理職の第一次評価者、第二次評価者が評価することの問題性・妥当性、業績評価の客観性と恣意性などが、論点となる。業績を評価しているのか、管理職の第一次評価者・第二次評価者との相性のよさ、彼らへの従順さの度合いを評価しているのか?

 昨年度は、「処遇には反映させない」という当局の説明の下に、したがって、その限りで、各教員の「Self Development」に資するため、という正当化理由で、多くの教員が参加した。しかし、当局は、その参加率の高さを背景に、マイノリティとしての不参加者をいけにえにして、問題の多いSDシートを処遇にまで反映させる素材にしようとしている。SDシート提出者には昇給を行うが、不提出者にはペナルティとして昇給を行わない、というのである。

 この当局提案は、昨年度に関しては、団体交渉における当局の言明・約束をすら否定するもの、労使交渉の信頼関係を根底から破壊するものとして、団体交渉の場での強い抗議を受けて、撤回した。しかし、SDシート提出と昇給とを結び付けようという方針はまだ撤回されていないようである。

 その取り扱いは組合の団体交渉に任せるとして、問題なのは、SDシートを素材に、教員評価を行っていいのかということである。

 教員評価と処遇とを結びつけるのは原理原則としてありうることである。しかし、SDシートはまさにその教員評価という主目的からはは不適切きわまる。客観性、公開性の点で、SDシートはまったく必要条件を満たしていない。SDシートを見ることができるのは書いた本人と第一次評価者、第二次評価者など管理職だけである。管理職のSDシートは全員公開すべきだと思うが、それは行われていない。

 教員の仕事の客観的データとしては、法人化後、全教員の所属する研究院によって作成れている研究業績目録がある。これは公開であり、誰がどのような仕事をしたか、誰でも検証できる。しかも、この研究業績目録は、狭い研究だけではなく、社会貢献や外部資金獲得に関するデータも掲載されている。各教員が自らの研究に基づいて行っている活動とその成果が、この公刊された目録ではっきりわかるのである。このデータをこそ、処遇と結び付けるべきであり、その仕方を検討すべきである。

 大学教員のように非常に専門分野が違い、研究の評価が難しく、だからこそ学問の自由、研究教育の自由の原則からしても、ピアレビューこそが確立されなければならないところで、「処遇差別」を手段に、管理職のコース長や学部長といった内部者が第一次評価者、第二次評価者として、評価(審査)を行うことは根本的に問題である。「賄賂」と「謝礼」の区別以上に重大な問題を、大学の研究教育に及ぼすというべきだろう。
 
 「大学教員の評価の基本は、まず研究です。良い研究ができない教員は、良い教育はできません。そこで、研究評価を、より厳密化させていくという方向を目指す」べきで、「多岐にわたる、きわめて専門性の高いそれぞれの研究分野を、一次評価者、二次評価者が十全に評価できるはずなどありません」と言うのは、正論である。SDシートを処遇にまで反映させる評価シートとしてしまおうとするのは、時代錯誤であり、「外部評価こそが重要だ」とする時代の認識に反するものである。大学人の見識が問われている。

 SDシートは、主観的なものであり、その形式を埋めるだけならば、一時間もあれば、形だけは整えることができる。「作文がうまいものが得をする」と。

 それに反して、研究業績目録に掲載される業績の場合は、どれひとつとっても何時間も、何十時間も、いや何ヶ月、何年もの研究蓄積が必要なものである。この大学教員の本来的な仕事を客観的なデータに基づいて評価するシステムをこそ構築すべきである。

 処遇差別(当面、1号差別)を強引に押し付けようとすれば、仕事時間1時間なにがしかの作業量として、多くの人は割り切って、形式を整えるだけである。こんなことがまかり通っていいはずがない。いや、当局にとっては、形式だけが必要なのか?


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