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2013年10月18日

学長人事選考をめぐる諸問題についての公大連見解

学長人事選考をめぐる諸問題についての公大連見解

2013年10月7日
全国公立大学教職員組合連合会中央執行委員会

 去る8月9日、橋下徹大阪市長が、任期満了に伴う大阪市立大学の学長選考を前にして、大学自治を侵しかねない重大な意見表明を行ったことが、新聞等により報道されました。同大学がこれまで教職員による学長選挙を実施し、その結果にもとづいて学長選考会議が候補者を市長に伝えるという手続きを踏んでいたのに対し、橋下市長は「(教職員による選挙につき)ふざけたこと。そんなのは許さん。」「選考会議に僕の意見を反映させる。それが民主主義だ。」と述べ、同大の学長選考に直接介入する意志を示しました(8/9朝日新聞夕刊)。この問題は一大学の内部事情にとどまらず、全国的に学問の自由と大学自治に多大なダメージを与えかねない危険性を孕んでいます。

 そもそも、大学構成員による学長選挙は大学自治の一環として、戦後日本の大学で通常に行われてきたものです。確かに大学の法人化を契機として、多くの公立大学では構成員による選挙の規程を失い、一部に意向投票の制度を残すのみとなってしまいました。しかし、国立大学においては、今でもこの全学投票が大きな力を有していますし、私立大学においても同様の手続きで学長を選出することは決して特異な例外ではありません。このような制度に対し、橋下市長は「何の責任もないメンバーが1票を投じるなんてまかりならない。選挙で選ばれた市長が任命するのが民主主義だ。」と話したとも報道されています(同日付毎日新聞夕刊)。報道された発言の細部に誤りがないとすれば、まことに奇異な主張です。

 大学運営に「責任」は重要だと思います。けれども「何の責任もないメンバー」とは誰のことなのでしょう。もしそれが大学構成員を指すことばであるとするならば、大学という組織や制度に対する大いなる無理解だと言わざるをえません。また、「選挙で選ばれた」ことが絶対的な力の根源であるならば、大学の中での選挙を敵視することと根本的な矛盾とならざるを得ないと思うのですがいかがでしょう。大学構成員にだけは民主主義は要らないということでしょうか。

 しばしば、大学を企業に擬えて「トップを選挙で選ぶ会社がどこにあるか」などと、構成員の意向投票を敵視する発言が法人化以降いくつかの大学で見られますが、大学の運営は企業経営とは全く違うものです。大学は、運営そのものが「学問の自由」や「大学自治」と不可分の関係にあるからです。また、それ故にこそ、憲法23条において「学問の自由」が明文化され、ユネスコの「高等教育職員の地位に関する勧告」第18項にも、大学の自治を、「学問の自由が機関という形態をとったものであり、高等教育職員と教育機関に委ねられた機能を適切に遂行するための必須条件」と規定しているのです。加えて地方独立行政法人法の採決に当たっての附帯決議にも、「憲法が保障する学問の自由と大学自治を侵すことのないよう、大学の自主性、自律性が最大限発揮しうる仕組みとすること」とあったのではないでしょうか。

 運営費交付金というお金を受けている以上、大学運営の説明責任は重いと思います。しかし独立行政法人化した公立大学は、大学基準協会等の審査を受け、且つ設置団体の評価委員会の審査を受け、というように、既に過大なまでの説明責任を果たしています。「責任」を根拠として学長選挙に否定的な意見が一部の大学で見られますが、学長を公選にしている大学は現在でも数多くあります。これらの大学で、何か重大な責任を負うべき不祥事でもあったというのでしょうか。仮にそうした事例があったとして、それは学長の公選に原因を有していたというのでしょうか。

 大学は、原則的に何十年と継続していくことを想定して運営されています。組織的に社会に容認されないような運営を行えば、たちどころにその責任は大学構成員に跳ね返ってきます。この間、大学改革と称して数多くの政策提言がなされ、矢継ぎ早にその実施を求められた案件が数限りなくあります。また、この後にも幾つもの案件が控えています。しかし、教育・研究・診療の現場をまったく顧慮しない多くの改革案に対し、その効果を検証して「責任」を負うのはどこの誰なのでしょう。大学運営の「責任」を問題とするということは、そういうことなのではないでしょうか。

 教育も研究も、その成果の検証には時間のかかるものです。短期的視野で思いつき的に導入された諸制度が破綻したときには、責任をとるべき当事者がいない。それが、討議と選挙の機会を奪われた大学の現状であり、そのことこそが問題なのだと我々は考えています。

 最後に設置者権限という観点から一言述べておきます。
 確かに現在の地方独立行政法人法によれば、理事長の任命を設置団体の長である首長に委ねています。しかし、法人定款に定められた学長選考の機関である選考会議にまで、首長が直接介入することは想定されていない事態です。もし、大学自治の原則を犯してまで設置団体の長がここに介入するのであれば、そこには重大な不祥事など、首長の介入が必要とされるそれなりの根拠が必要となるはずです。

 もちろん公立大学はその設置形態からしても、設置団体との有機的な連携の中でその存在意義が発揮されるべきものです。しかし、それと同時に大学は教育・研究・診療という面で、更に大きな社会的責務の中で自らの使命を果たすことが求められています。そのような大きな観点から、大学の責任と体制は議論されなければなりません。大阪市のように首長が直接学長人事に介入せずとも、大学と設置団体、大学と市民との連携はこれまでにも十分に果たされてきましたし、これからも機能していくことでしょう。

 大学の自治について、附帯決議というような形でしか保証されなかったことに顕著なように、公立大学の地位は非常に不安定です。その不安定さを利用して設置団体の長が大学に干渉することは、特別な事情のない限り退けられるべきことです。大学の自治や学問の自由を持ち出すことは、決して大げさなことではなく、このような恣意的な政治介入を見過ごすところから大学の瓦解は始まるのだと、我々は警鐘を鳴らし、広く訴えたいと思います。


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