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2013年12月03日

社会経済史学会、「経済学分野の参照基準(原案)」(提案1)に関する意見書

社会経済史学会
 ∟●「経済学分野の参照基準(原案)」(提案1)に関する意見書

「経済学分野の参照基準(原案)」(提案1)に関する意見書


 日本学術会議において、現在議論されている「大学教育の分野別質保証」のための「経済学分野の参照基準」の内容に関して、社会経済史学会常任理事会は、経済学教育が危機に直面していると認識し、常任理事会として意見を表明することにいたりました。

(1)経済学こそ相対化される必要がある
 本参照基準は、学士課程教育における経済学の質保証のためのものであるが、「学力に関する最低水準や平均水準を設定するものでもなく、また、カリキュラムの外形的な標準化を求めるコアカリキュラムでもない」とした上で、「各大学が、各分野の教育課程(学部・学科等)の具体的な学習目標を同定する際に、参考として供するものである」(1頁)という日本学術会議の回答(参考文献[2])にそって作成されている。
 しかし、本提案の趣旨は、こうした指針とは逆に、「今後の学士課程教育は、一方で、わが国の伝統である経済学に対するアプローチの多様性を尊重しつつ、他方で……国際通用性を持つ質の高い教育が行われることが期待される」(1?2頁)としながらも、結果として、「わが国特有の方法で行われてきた『多様なアプローチに基づく経済学教育』からは距離をおいた報告」(1頁)になっている。
 その原因は、社会科学の一環として有効性を持ちうるはずの経済学の体系を、「国際的に共通したアプローチ」「標準的アプローチ」としてミクロ経済学・マクロ経済学(および統計学)の特定科目を基礎科目と位置づけることにより、経済学の対象を自ら狭隘化させていることから生じていると思われる。
 本提案は、参考文献[4]の”Nature and context of economics”(p.1)や OECDの報告書[5]を基礎に作成されているが、これらの報告書においては、ミクロ・マクロのレベルと静学・動学のレベル、国際的な文脈や社会経済的な文脈での理解の必要性など世界的視野で経済事象を理解するうえで重要と思われる論点が指摘されているものの、本提案に十分に反映されているとは言い難い。
 とくに、本提案では、経済学の特性として、「学問用語の定義と意味が世界的に標準化」されていることや「経済学を習得した者の間での国際的なコミュニケーションが容易である」ことが強調され、「文化や社会の多様性が認められるべきだという相対主義が強い学問分野とは対照的である」(6 頁)と指摘されていることからすると、本提案でいう経済学は絶対主義の強い学問分野であるとみなすことができる。しかし、本提案でも指摘されているように、「経済学は発展途上の学問」(7 頁)、「新しく若い学問」(17 頁)であって、「成熟した学問分野」ではない(7頁)とすれば、むしろ逆にこうした「標準的アプローチ」は絶対化されるべきではなく、相対化されるべきものであると考えられる。経済学が学問として自らを相対化し得ないとすれば、学生に
「標準的なアプローチの有効性とその限界」(8 頁)や「経済学の社会的意義とその限界」(19頁)について認識させることは難しいであろう。

(2)多様な世界を知るためには多様なアプローチが必要である
 本提案における経済学の定義と経済学の専門分野との関係はかならずしも明確でないが、「経済学の体系」に関して「ミクロ経済学、マクロ経済学が……共通した経済学的アプローチを提供している」(6頁)という記述からすると、主に経済理論に基礎をおく経済学を意味していると考えられる。しかし、現状のミクロ経済学・マクロ経済学が、経済事象を分析するための十分なモデルを提供できていないところに問題があることは明らかで、そのために「経済学者間で意見を異にする」(7頁)、あるいは「多くの理論的説明が併存」(8頁)し、「その主要な原因は、理論の妥当性を検証する実証分析の検定力が弱いことにある」(8頁)が故に、「不正確な教育」(17頁)になる可能性も多分にでてくる。
 たしかに、人間を豊かにする「手段は多様」であるが故に選択が重要であり(3頁)、「現代社会には多様で膨大な数の社会問題が存在する。これらの諸問題の全体像を知り、それに対処する仕方を考えておくことが、社会で生きていくうえで必要不可欠であるものの、経済学の専門教育だけでそれを十分に習得することはできない」(19頁)ことは提案でも指摘されているものの、各国・各地域の経済主体の行動は、自然資源の賦存状態や地政学的環境により歴史的に規定されていることは言をまたない。しかし、経済学が「市場のメカニズムや市場の取引に参加する経済主体の行動」(3頁)や「市場経済に基づいた先進国経済を前提」(7頁)としているのであれば、世界人口の多数をしめる新興国や途上国の貧困や医療・教育の格差など「複雑な仕組み」(8頁)に基づく世界の種々の経済的諸問題の解決のためには、自ずからその限界は明らかである。
 日本の経済学教育について、本提案では、「わが国では、制度や歴史を通じた理解には理論的・数量的な分析を必ずしも必要としないこともあり……標準的なアプローチを軽視し、制度的アプローチや歴史的アプローチを強調することが多い」(7?8頁)と指摘されているが、こうした歴史的・制度的アプローチは日本に特有なことではなく、世界各国に共通してみられることである。「経済史や経済制度に関する教育自体も、できるだけミクロ経済学、マクロ経済学と関連づけて行われることが望ましい」(8 頁)という記述は、「ミクロ経済学、マクロ経済学に関する教育自体も、できるだけ経済史や経済制度と関連づけて行われることが望ましい」と書き換えられるべきであろう。
 「歴史的アプローチや制度的アプローチ」が必要なのは、「市場経済を中心とする現代の経済制度を本質的かつ歴史的に理解するため」や「標準的なアプローチと補完的に使用する」(7頁)ためだけではなく、現実の世界には、ミクロ経済学やマクロ経済学の既存の理論的な設定では視野に入ってこない数多くの経済事象があり、こうした問題を発見し、分析することが経済学にとってひとつの重要な課題であるからに
ほかならない。

(3)「演繹的思考」と「帰納的思考」の重要性について
 本提案では「経済学に固有な能力」として「演繹的思考」と「帰納的思考」があげられている。経済学教育において演繹的思考と帰納的思考の双方を学習することが重要であることはいうまでもない。この部分は参考文献[4][5]での指摘を反映したものと思われるが、これらの文献ではミクロ経済学・マクロ経済学に特化した記述ではないので違和感はないものの、本提案での演繹的方法と帰納的方法との関係について
は疑問をもたざるを得ない。
 3-1「経済学の方法」では、モデルの構築・分析と「現実経済との整合性のチェック」の重要性が指摘され、これが「演繹的思考」と「帰納的思考」に対応するものとなっている。「演繹的思考」は「一定の仮定に基づいた理論モデル」の構築(12 頁)とされているのに対して、「帰納的思考」は「現実の経済データや個別の事例から一般的な法則を導き出し、理論モデル自体やそこで採用されている仮定の妥当性を検証するという作業」と定義されている。しかし、ここでいう「帰納的思考」とは「演繹的思考」の可否の判断にともなって当然行われるべきプロセスであって、「帰納的思考」とは本質的に異なるものである。「標準的アプローチ」における「帰納的思考」がその程度のものでしかないのであれば、多分に再検討の余地がある。
 統計学的知識を身につけ、収集した経済データを分析・解明するスキルを学習することで「数量データの本質を見抜く洞察力を獲得する」(12 頁)ことが重要であることは言うまでもないが、経済現象のすべてが定量化できるわけではなく、定量化できない多くの記述資料や視聴覚資料も存在することはいうまでもない。こうした定量化可能な資料と定量化できない資料とを史料批判をふまえた上で総合的に思考し、判断する能力を経済学的アプローチによって習得することが、社会性を持つ市民としての学生の教育にとって重要なことと考えられる。このことは、学生が「標準的アプローチ」による経済学を学習する際の「機会費用」(10 頁)についても考察する必要があることを示している。

 経済学教育にとってミクロ経済学、マクロ経済学、統計学などの基礎理論についての学習が必要であることは否定しないが、経済社会は制度もふくめて歴史的に形成されたものである以上、多様性を重視せずに、理論による単一の解の可能性だけを求める思考方法は、多様な社会現象を対象とする社会科学としての経済学の意義を逆に損なうものであると言わざるをえない。経済学が「現在」の状況を相対化し、客観的・科学的に把握できないかぎり、経済学によって未来を語る選択肢はとざされてしまうことを、われわれは危惧している。

2013 年 11 月 27 日
社会経済史学会代表理事
杉山伸也

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