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2015年09月19日

辺野古新基地を止めるには? 在沖海兵隊が尖閣を守らない事実を国民に理解してもらうことだ

沖縄タイムス(2015年9月15日 10:40)

佐藤学(さとうまなぶ)
沖縄国際大学教授

 辺野古への新基地建設をめぐる国と沖縄県の集中協議終了を受け、翌9月8日の沖縄タイムス朝刊に「識者評論 政権、危機回避に成功」の見出しで私の論考が掲載された。


 1カ月の集中協議が終わった。結果は予想された通り「決裂」である。安倍晋三政権にとっては、辺野古で反対する県民を蹂躙(じゅうりん)しての工事強行の「絵」が、安保法制反対デモの「絵」に重なる危機を回避したことで、予定通りの成功である。


 県には、政府を協議の場に引き出したということ以上の成果はなかった。この1カ月の協議で安倍政権を説得できる訳はなく、この期間は、知事の発信力で、広く日本の世論に辺野古の無意味さ、つまり在沖海兵隊が、日本が期待するような機能を持たない事実を知らしめる機会として使うべきであり、安保法制の国民的争点化は、願ってもない状況だった。


 しかし、全国メディアの報道を見る限り、集中協議は安保法制報道とは別個の問題として扱われていた。また、「沖縄のガス抜き」程度の小さな枠で処理された。辺野古が、日本の安全保障や政府財政にとって切実な問題であるとの論点は見られず、安倍政権の「沖縄の言い分を聞いた」という体裁づくりだけが残った。


 国会での安保法制審議が終われば、安倍政権を止めるものはない。安保法制反対を掲げている最大野党民主党は、辺野古建設を決めた政権政党であったのだ。


 辺野古反対が、沖縄内の問題と見られている限り、埋め立て承認取り消し後の建設阻止はより厳しい局面に入る。知事は、歴史に加えて、現在、沖縄が普天間以外にどれだけ大きな米軍基地を負担しているかを、具体的に見える形で明示する必要があった。


 加えて今後、県民に対しても、在沖海兵隊は、尖閣で軍事衝突があっても戦闘には行かない、行けない「事実」を周知させていかねばならない。この一点を官房長官や防衛大臣に認めさせられていたら、今後の展開を大きく変えられた。それをしなかったことが悔やまれる。(2015年9月8日付2面)


 それから6日後の9月14日、知事が辺野古埋め立て承認取り消しを宣言し、実際の手続きに入った。国は12日にボーリング調査への作業を再開しており、次の焦点は、本体工事をいかにして阻止できるかになる。


 安保法案の参院強行採決が17日に予測される中、その後にこれまでの安保法制反対運動の高まりを維持するのは困難になろう。先の8日の記事で指摘した、集中協議期間中に「メディア・ブリッツ(大宣伝戦)」を展開できなかったことが、沖縄県としては取り返しのつかない機会の損失になるかもしれない。


 一方、取り消しは、沖縄県の政策が明瞭に変わったことを米政府に突き付ける動きであり、知事選後10カ月が過ぎて今更ではあるが、米政府に対して辺野古反対の民主的正当性を迫ることにはなる。2010年県知事選挙での公約に反したとはいえ、民主的に選出された仲井真前知事が下した決定が生きてきた以上、米政府は翁長知事の主張を無視できた。


 しかし、安倍政権の姿勢が変わらず、統合幕僚長が米軍に国会審議の結果を約束する、という、これ以上ない文民統制違反が、「相手国があるから、記録を出せない」という言い逃れでうやむやに済まされる政治環境の中、今、埋め立て承認を取り消しても米政府が対応を変える可能性はない。


 法廷闘争になる場合の見通しについて、行政法学の門外漢である筆者には、残念ながら、14日の沖縄タイムス分析記事以上の専門的知見はない。ただ、素人にも分かることは、安全保障絡みの裁判で日本の司法が国を負かせる可能性は限りなく低いことと、最終的な判決が出るまでの間に工事を止められずに、本体埋め立て工事が進んでしまえば、裁判に意味はなくなるということである。そして国は「あらゆる手段」を使って工事を強行してくるだろう。


 今月21日に予定されている翁長知事の国連演説は、人権侵害問題として国際的な関心を向けさせる上で大きな意味がある。一方、演説が沖縄県の民族独立運動化の証拠として政治的攻撃に使われる可能性も非常に高いことを、十分に考慮しておかねばならない。それが「オール沖縄」の崩壊につながるおそれが強いことに配慮した上での主張を展開する必要がある。


 集中協議後に、菅官房長官は、翁長知事が「戦後の土地収用が普天間問題の原点」と発言したことに対して、「賛同できない。戦後は日本全国、悲惨な中で皆が大変苦労して平和な国を築いた」と反論したと報じられた。読売新聞9月8日社説は「翁長氏が集中協議で、普天間問題の『原点』を、『普天間飛行場の危険性除去』でなく、『戦後の米軍による強制収用』と言い放ったことへの反発もその(翁長氏の硬直的な姿勢への批判の=注・筆者挿入)一つだ」と書いた。


 これは、「沖縄の感情論」に対する「日本政府の現実対応」という図式に、沖縄が引き込まれてしまったことの証である。「魂の飢餓感」といった発言は、県民の共感を得たが、むしろ東京の思うつぼにはまってしまったと考えた方が良い。


 翁長知事は「日本全国の大変な苦労」と、沖縄県の苦労は次元が異なるという事実を突き付けるべきであった。非戦闘員の市民ほぼ全員が強制収容所に入れられ、その間に家屋や土地を強制接収された県が、日本のどこにあるのか。1946年に大日本帝国憲法が改正されて日本国憲法とされた時の国会に、まだ施政権が切り離される前の沖縄県を代表する議員は選出されず、1952年サンフランシスコ講和条約の承認・批准時にも、沖縄は埒外に置かれて、沖縄県民の存在は一顧だにされなかったことは「事実」である。普天間基地問題は、言うまでもなく、そこから始まっているではないか。沖縄県民の「大変な苦労」は、沖縄戦の犠牲だけではないのだ。政府首脳の歴史認識の欠如には、もはや呆れてものも言えない。


 「沖縄の感情論」というくくりを壊すためには、筆者が繰り返し書いてきたことで申し訳ないが、日本政府が宣伝し、日本国民が信じ込まされているような機能を在沖海兵隊は果たせないことを明らかにする必要がある。


 在沖海兵隊が直接尖閣に戦闘に行かないことは、日米安保条約の提供施設(1972年日米合同委員会議事録参照)が黄尾嶼(久場島)、赤尾嶼(大正島)だけであり、また今年4月に策定された新ガイドラインで、島嶼防衛は自衛隊が一義的な責任を負うと決められた(日米防衛協力のための指針の10ページ「陸上攻撃に対処するための作戦」)ことからも、また、オスプレイが戦場での作戦行動に向かうには、佐世保所属の強襲揚陸艦が必要であることからも、明々白々な「事実」である。


 例えば、朝日新聞7月31日オピニオン欄「耕論」で、元海上自衛隊航空隊司令で東京財団研究員の小原凡司氏が東アジアの安全保障に安保法制が必要との持論を展開したインタビューの中で、「日米が一緒に尖閣を守るという議論がありますが、ナンセンスだと思います。そんなことを米国はしないし、防衛は日本の責任です。そもそも日米同盟は、日本が攻撃を受けた場合、日本が防衛し日本がもたない攻撃部分を米国が担保するというのが基本です」と断言している。


 更に付け加えるならば、沖縄は嘉手納飛行場・弾薬庫だけで、県外の全ての主要米軍基地合計面積よりも大きい、応分どころではない負担を引き受けていること、そして、今、沖縄が要求しているのは、普天間飛行場の閉鎖・返還と辺野古新基地の断念だけだという「事実」も分かってもらわねばならない。


 沖縄の辺野古阻止の主張は感情論ではなく、むしろ、日本の防衛のために「辺野古=在沖海兵隊=オスプレイ」の実態(※)を知らずに拝んでいる日本国民こそが感情論に立っていること、それをはっきり主張して、辺野古新基地建設が無駄であることを日本国民に説明し、理解してもらわねば、建設は止められない。※在沖海兵隊とオスプレイについては佐藤氏の「オスプレイと在沖海兵隊は『御守り』にすぎない」に詳しい。


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