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2016年03月08日

全大教、「馳浩文科大臣の国旗・国歌についての介入発言を批判するとともに、大学の自律的判断を呼びかける」

全大教
 ∟●「馳浩文科大臣の国旗・国歌についての介入発言を批判するとともに、大学の自律的判断を呼びかける」

「馳浩文科大臣の国旗・国歌についての介入発言を批判するとともに、
大学の自律的判断を呼びかける」


 馳浩文部科学大臣は、岐阜大学の森脇久隆学長が入学式・卒業式で国歌斉唱をしない方針を述べたことに関し、2月21日、記者団に対し、「国立大として運営費交付金が投入されている中であえてそういう表現をすることは、私の感覚からするとちょっと恥ずかしい」と述べたとされ(2月22日付朝日新聞)、また、2月23日の定例記者会見でも「君が代を斉唱することは、私は望ましいと思っている」「日本人として、特に国立大学としてちょっと恥ずかしい」(文部科学省ホームページに掲載の動画から)と改めて考えを述べた。

 馳大臣のこの一連の発言は、大学、とくに国立大学への不当な介入であり、予算編成権や国立大学法人の中期目標を指示する権限をもつ大臣として不適切なものである。私たちはこれに強く抗議する。

 昨年(2015年)、安倍晋三総理大臣、下村博文前文部科学大臣が国会質疑のなかで、国立大学の式典における国旗・国歌が「正しく実施」されるべきとし、それが「適切な対応が取られるよう要請」すると発言したことに対し、私たちは、「政府はあらためて、国民の思想信条、内心の自由を尊重すること、大学の運営については大学内の議論にもとづく民主的運営、「大学自治」を守ることに立ち返る」ことを求めた(2015年4月22日付け声明「政府の国旗・国歌「要請」方針に抗議するとともに学長・国立大学協会は自律的判断にもとづく行動をすることを求める」)。その後、下村大臣(当時)は、2015年6月16日に国立大学長・大学共同利用機関長等会議において、全国の国立大学長に対して「要請」を行った。

 今回の、馳大臣の一連の発言の問題点を次のように考える。
 第一に、馳大臣は、本来大臣に権限のないことを承知で大学に対して不用意な介入をしているという問題である。
 馳大臣は2月23日の記者会見の中で、「高等教育機関には学習指導要領がないので、教育活動等について強制的、命令的に指示・命令するようなものではない」とし、「大学の執り行う教育活動について、自主的に適切に判断いただければよい」と述べている。文部科学大臣にはこうした件に関して大学に対して指示・命令する権限が無いと表明せざるをえないのである。この点に関しては、昨年6月に下村博文前文部科学大臣が直接国立大学の学長に対して文部科学大臣の立場として正式に「要請」を行ったこととの比較においては、大臣の立場をわきまえた発言ともいえる。
 高等教育機関に学習指導要領が定められないのは、大学に対して、大臣たりともそこで執り行われる教育活動については介入してはならないということの、制度上の表現なのである。このことは最大限尊重されなければならないことを改めて強調しておく。

 第二に、大学における多様な個人の思想・良心の自由を尊重していない点である。
 馳大臣は、21日の記者団への発言で「学長が(斉唱しないことに)言及することはちょっと恥ずかしい」と語ったとされ、また23日の記者会見では、「私が学長だったら、日本社会の多くの方にご支援をいただいて、高等教育に臨む、あるいはおかげざまで卒業します、社会に出てそれぞれの道を歩みます、というのであれば、君が代を斉唱するのが私としては望ましいと思う」と述べている。これは、学長を通して、馳大臣個人の「私」の思想・信条をすべての学生・保護者に求めていることであり、問題である。とくに大学は多くの留学生がおり、また今後ますますグローバル化していくべき時である。多様な意見や背景をもった人々が集う場としての大学を理解し、尊重する姿勢が求められる中での、大臣の発言は重大であることを認識すべきである。
 なお、私たちは、小・中・高校の学習指導要領に国旗掲揚・国歌斉唱を「指導するものとする」と明記され現場においてその指導が強制される現状そのものが、教育現場における思想・良心の自由を侵害しているものとして、今回の大学における国旗・国歌の取り扱いへの介入と同様に非常に重大な問題であると認識していることを改めて明らかにしておく。

 第三に、国が教育の機会を提供し条件整備を行う責任を負っていることを自覚した発言をすべきである。
 馳大臣は、大学で学ぶにあたって公的資金の投入がなされていることを、国旗掲揚、国歌斉唱を求めることの根拠の一つとしている。
 大学は言うに及ばず、教育には、すべての国において、多かれ少なかれ公的な資金が投入されている。馳大臣がいうように、このことが社会的合意にもとづいて行われていることはそのとおりであるが、それを「支援」と言い切ってしまうことは重大な誤りである。
 教育は、日本国憲法第26条第1項ですべての国民に対して保障する「権利」である。国民に保障された権利を実質化するために、国がその機会の提供、条件整備を行わねばならず、その方法の一つが公的資金の投入である。日本は、国際的に見れば遅れてはいたが、2012年に国連国際人権規約の高等教育漸進的無償化条項の留保を撤回したのであり、政府は、高等教育を受けようとするものへの無償化に向けた取り組みを具体的に進めていくべき立場にある。それを、保護者・学生が「支援」を受けていると一方的に位置づけし、感謝の念を表すこと、そしてその方法について軽々に述べたのである。問題のある発言と言わざるをえない。
 付言すれば、高等教育への公財政支出は、OECD諸国最低レベル(対GDP比で0.5%であり、OECD諸国のうち統計のある32カ国中31位(2012年))であり、そのことを熟知する立場の大臣が、公的支出の投入をもって国旗国歌の要請の根拠とすることもまた「恥ずかしい」。

 馳大臣は、これら国旗・国歌に関する一連の発言に先立つ1月10日には、石川県において新聞社会長との懇談の中で、国立大学法人に対する運営費交付金に関し、学長等の学内選考において意向投票を行っている大学に対しては交付金配分を厳しく評価する、と発言したと報じられてもいる(1月11日付富山新聞)。これもまた、大臣の権限を恣意的に発動する意志を示すことによる不当な大学への介入であり断じて許されるものではない。
 今回、岐阜大学の森脇久隆学長が、今春の式典において従来からの慣例である愛唱歌を唄うこと、そして「君が代」斉唱を行わないことを、自律的な判断として明確にしたことについて、高く評価し、敬意を表する。
 私たちは、それぞれの大学が毅然として自律的な判断を積み重ねていくこと、そしてすべての大学人がそのことに責任をもって自覚的に参加することを呼びかける。

2016年3月7日
全国大学高専教職員組合中央執行委員会

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