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2017年07月21日

大学教員を腐敗させる教員人事システム、同志社大学では「捏造」業績評価

『紙の爆弾』2017年8月号

大学教員を腐敗させる教員人事システム、同志社大学では「捏造」業績評価

取材・文 早野慎吾

 昨年末のこと、弘中惇一郎・山縣敦彦両弁護士より、浅野健一氏の研究業績を検証してほしいとの依頼があった。
 浅野氏といえば同志社大学の名物教授で、メディア学専門の著名な学者である。メディア学が専門でない筆者も浅野氏の著作『犯罪報道の犯罪』(一九八四年、学陽書房)は知っている。それに浅野氏はすでに博士課程(博士後期課程)担当教授なので、今さら業績を調べてどうするのかと思ったが、どうも浅野氏の研究業績等に問題があるとして、社会学研究科委員会(大学院の教授会。以後、教授会)決議で定年延長を拒否されたとのことである。
 そこで第三者としての客観的な立場で、同志社大学が行なった評価方法が適切だったかどうかを検証してほしいというのである。
 数日後、浅野氏の研究業績と教授会が審査に使った「浅野教授 定年延長の件 検討事項」(以下「検討事項」)などが送られてきたが、「検討事項」には、唖然とするほど摩訶不思議なことばかりが書かれていた。
 浅野氏の業績と「検討事項」を精査していくと、浅野氏を同志社大学から追放する陰謀ともとれるカラクリが見えてきたのだ。
 単純なカラクリなのに、なぜそれがまかり通るのか。本稿では浅野氏の事例から、大学人事のシステムの問題点について考察する。

外部審査と内部審査

 「検討事項」の冒頭には、「(浅野氏に)大学院の教授の水準を満たす研究はない」と書かれている。浅野氏の正式な職名は、同志社大学大学院社会学研究科メディア学専攻博士後期課程教授。おまけに、文部科学省が行なった博士論文の指導のための業績審査で合格判定を受けているので、その「検討事項」の記述は明らかに間違いである。
 大学院で学位論文が指導できる教員になるには、文科省が行なう外部審査か、大学内で行なう内部審査で合格判定を受けなければならない。文科省が判定する外部審査のハードルは内部審査より高く、合格判定を受けた教員は○合(マルゴウ)教員と呼ばれる。大学院設置には、学位を出すために○合教員が必要となる。○合がいないと学位をだせないので大学院設置許可が下りないからである。
 大学院が設置されれば、あとは大学の内部審査(いわゆる身内審査)で判定できるので、文科省で不合格判定を受けた教員たちに合格判定をだして学位論文の指導をさせる。
 送られてきた裁判記録によると「検討事項」を作成した中心人物はA氏。浅野氏によれば、そのときA氏は修士課程担当になったばかりとのことである。大学院には修士課程と博士課程があり、修士課程修了後に、研究者を目指す学生が博士課程に進学する。博士課程のある大学院は、修士課程を「博士前期課程」、博士課程を「博士後期課程」とする場合が多いが、同志社大学も博士前期課程・後期課程としている。修士課程担当になったばかりの教員が、博士課程担当の○合教員に「大学院の教授の水準を満たす研究はない」と評価するのだから、驚きだ。
 「検討事項」には、次に「CiNii Articlesに基づく」との前置きで、「1994年4月以降、査読により本学外の学会で認められた論文は1本もない」とある。「CiNii Articles」とは、
大学共同利用機関法人国立情報学研究所が提供している学術論文検索用のデータベースサービスのことである。
 そもそも、CiNii Articlesには査読付かどうかの検索機能はないので、査読付か否かの判断はできない。それなのに査読付論文が「1本もない」とする記載は明らかな誤りである。この間違いがA氏の故意によるものであれば〝捏造〟であり、CiNii Articles機能を知らずに間違えたのならば、研究業績を審査する能力が疑われる。
 学術論文には、査読付(審査付、レフェリー付)と呼ばれるものと、そうでないものがある。査読付論文とは、審査者が査読を行ない合格した論文で、査読なしの論文よりも学術的価値が高いと評価される。また、雑誌の種類にもよるが、国内で発表された論文よりも海外(表記は主に英語)で発表された論文の方が、学術的価値が高いとされる。浅野氏は〝Japan and America's War,〟 Harvard Asia Quarterly, Autumn 2001など、海外で発表された査読付論文が5編ある。
 また、「検討事項」には「(浅野氏が)2009年から2013年9月において発表されたのは、いずれも査読なしで、単著の論文は1本、大学院生との共著の論文2本、研究ノート2本のみ」と記されている。これは「CiNii Articlesに基づく」とあるが、筆者がCiNii Articlesで「浅野健一」「2009年?2013年」という条件を入力して検索をかけると五七件がヒットした。単著五三編・共著四編である。五三編の単著を五一編と間違える程度は起こりうるが、五三編を一編(「検討事項」では1本と表記)と間違えることはあり得ない。ここまで来ると、間違いでなく「捏造」の可能性が高い。

大学人事における「研究業績」とは

 さらに「検討事項」には、「論文の内容には、客観的根拠がない推測による記述が多く含まれ、学術論文として不相応」と記されている。このA氏の「検討事項」こそ「客観的根拠がない推測」(もしくは捏造)と思うのだが、具体的に何を根拠に「推測による記述が多く含まれる」としたのか不明である。「研究論文の基本的作法が守られていない」「理論矛盾、私的体験の一般化」「大学院教授として品位にかける表現」なども書かれているが、ここまで来ると難癖以外の何ものでもない。「月刊誌、週刊誌等に掲載された記事は学術論文ではなくエッセイ」など、研究者とは思えない記述もある。月刊誌か週刊誌かなどは、刊行間隔の違いにすぎず、学術論文か否かと関係ない。有名な総合科学雑誌Nature(505,641647)に掲載された小保方晴子他のSTAP細胞の論文も、Natureが週刊誌なのでエッセイとなってしまう。もちろん、エッセイならあれほどの大問題にはなっていない。
 とにかく、浅野氏の業績を極端に過小評価させるための間違った書類を元に出された教授会決議はすぐにでも撤回されるべきである。
 大学の教員人事には審査基準内規があり、筆者が知る某国立大学の審査内規では、主たる審査項目を「研究上の業績」として、諸活動(「学会における活動」「教育的活動」「社会における活動」)を考慮することになっている。鹿児島大学大学院連合農学研究科ではウェブに大学院の教員資格審査の基準が公表されており、研究業績(副指導教員で審査付き論文一二編以上等)が判定基準となっている。研究業績以外で判定される場合もあるが(後述)、一般的には研究業績が最大の判定基準となる。
 当初、「検討事項」は、恣意的な間違いでない可能性もあると思っていたが、A氏が法廷でも間違いでないと証言したので、その可能性は否定された。
 浅野氏の例は、教員人事で最も重要な研究業績を間違った内容で極端に過小評価させ、さらに「品位に欠ける」などの難癖までつけている。そのような報告をもとに決議した教授会決定は、あまりに瑕疵が大きい。そのような理不尽が通ってしまうシステムが教授会にはある。

「教授ころがし」と「当て馬公募」

 一般の感覚では、大学の人事で捏造が通るはずなどないと思われるかもしれないが、そうでもない。さすがに捏造は少ないが、インチキは日常茶飯事で起きる。
 大学の教員採用人事は、まず学科とか講座とよばれる少人数の組織で行なわれる。近年は公募することも多いが、公募でもインチキは行なわれる。
 選考者(採用審査をする者)がある知り合いを採用したい場合、その人に応募させる。ここまでは、不正でも何でもない。しかし、明らかにほかの応募者の研究業績が優れている場合、「担当授業と専門が合わない」との魔法のことばを使って業績の多い応募者を外す。教授会には、論文数や年齢だけが報告されるので、「専門が合わない」と言われれば、他人は口を挟むことはできない。
 筆者の知る某国立大学では、そのような人事の結果、単著の論文が一編もなければ共著でファーストオーサー(代表者)すらない応募者が、多くの応募者の中から准教授として採用されたケースがある。なんと応募者の業績の半数に、選考者が共著者として名前を連ねている。選考者は自分でまとめた論文を自分で審査して、名前だけ共著者に連ねている応募者を採用したのだから、インチキそのものである。
 そのような手法で、ある教員グループは、それぞれの大学の教授ポストを回すので、筆者は「教授ころがし」と呼んでいる。たとえば、某国立大学の理科教育の歴代教員の経歴を確認すると、みんなH大学大学院出身で、さらに元H大学附属学校の元教諭(つまり小中高の教員)たちである。
 一般に教授会では、他学科(他講座)の人事には口出ししないという暗黙のルールがある。他学科の人事に干渉すると、自学科の人事で干渉されることになるから黙っているのである。結局、人事担当の学科決定が教授会でそのまま可決される。密室での決定が、ほとんど審議されることなく、そのまま決定・承認されるシステムである。
 浅野氏のケースは、このシステムが悪用された例と言える。捏造資料をもとに業績不足と報告されたとしても、あえてそのことに異議を唱える教員などいない。そこに書かれたことが捏造であるかどうかなどは関係なく、教授会で報告されたがどうかが全てである。A氏が作成した「検討事項」に学科全体が加担しているかどうかはわからないが、そのようなシステムの教授会では、学科で定年延長拒否が決定した時点で、浅野氏の定年延長はなくなったといえる。
 筆者が聞いたある私立大学では、公募で純粋に選考した人事に、他学科がクレームを付けて潰すこともあるという。それが嫌でお互い干渉しない暗黙のルールを作るのだが、すると自分たちのご都合主義が横行する。浅野氏の話によると、浅野氏が属していた学科(専攻科)では、優れた業績の応募者をことごとく外し、ある教員の関係者ばかりを採用していたとのことである。
 公募はその名の通り、公に募集をかけることを指す。しかし、公募したとの名目を得るために行なわれる「当て馬公募」と呼ばれるものがある。前出の某国立大学では、准教授から教授に昇進させるために公募が行なわれた。教授職を公募して、その准教授に応募させて教授として採用する。もちろんその公募で外部からの応募者が採用されることはない。そのことを情報公開していれば問題ないが、そうはしない。一般社会からすると信じ難い行為であり、どうして、そこまでして公募採用の形式が欲しいのか理解に苦しむところであるが、得てしてインチキを行なう者は形式だけは保とうとする。
 大学教員の公募は、国立研究開発法人科学技術振興機構が提供している研究者人材データベースJREC-INに公開される。研究者を目指す人はそこで公募情報を知る。某国立大学は、やたら厳しい条件を加え、募集期間を短く切って、JREC-INで公募をかける。そのような状況なので応募者は少ないが、真剣に大学教員を目指している人にとっては、非常に迷惑な話である。
 厳しい条件に、募集期間が短い公募は、「当て馬公募」を疑うべきだ。逆に極めて曖昧な条件の場合も、審査過程で恣意的に処理される可能性が高い。

資格審査の抜け道

 先ほど、大学教員には研究業績が重要と述べた。それでは研究業績のない元官僚やスポーツ選手が大学教授になれるのはなぜか。
 それは、文科省大学設置基準「教授の資格」第十四条に「五.芸術、体育については、特殊な技能に秀でていると認められる者。六.専攻分野について、特に優れた知識及び経験を有すると認められる者」の項目があるからだ。この項目は、オリンピックのメダリストのように技能に秀でているものの、研究業績のない人材を教員採用するのに必要な項目であるが、官僚の天下りを容易にしてしまう。
 前出の某国立大学では新学部設置の際、経済産業省からの役人を学部長に採用している。天下りは文科省だけの話ではない。人事をスムーズにするルールは、エゴが働けばご都合主義の人事を許すことになる。すべて、諸刃の剣といえる。
 このようなご都合主義の教員人事がまかり通っている状況では、必死に研究業績を積んだ人材に職場が与えられず、選考者に都合のよい人ばかりが採用されることになる。また、浅野氏のように優れた研究業績をもつ研究者が、人間関係から職場を追われることもある。
 この教員人事システムが、優秀だが選考者には都合の悪い人材を排除するのに利用されているのは明らかで、これが大学教育の腐敗に繋がる。大学教員人事に、干渉ではなく検証するシステムを導入する必要がある。検証システムがあれば、浅野氏の例は防げたと考えられる。このことを話したら、某国立大学名誉教授のC氏は、「自分たちのインチキを通したいから、誰も検証システムをつくらないのですよ」と答えた。

編集部より
 浅野氏の「地位保全裁判」について、編集部が同志社大学に対し、「検討事項」の内容に〝捏造〟がみられることをどう考えるか、浅野氏の業績評価を見直すつもりはあるか、などについて質問したが、大学からは回答を得られなかった。なお、浅野氏の定年延長拒否の判断が下された当時の同志社大学学長は村田晃嗣氏で、安保法案に支持を表明、一五年七月の衆院特別委で、法案に肯定的な意見陳述を行なった人物。現在は松岡敬学長。
 ちなみに「検討事項」には、浅野氏が職場にいたことによるストレスで、「帯状疱疹」「突発性難聴」に罹った教員がいる、とも書かれていた。帯状疱疹はウイルスを原因とする疾患であり、ここにも「客観的根拠がない推測」が見られる。

早野慎吾 (はやのしんご)
都留文科大学教授(社会言語学)。宮崎大学准教授を経て現職。自らも大学によるでっち上げ事件の被害にあったが、最高裁で無実が証明された。


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