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2018年01月23日

学問の自由と信教の自由を弁(わきま)えない大学

■VERDAD, Oct. 2017

学問の自由と信教の自由を弁(わきま)えない大学

慶應義塾大学名誉教授
弁護士
小林 節

 明治学院大学の寄川条路教授(倫理学担当)が懲戒解雇された。理由は、同教授が、大学の教育方針と大学の設立母体であるキリスト教派の教義に批判的だからだそうである。その決定のために、大学は、同教授の教科書の内容を確認し、さらに、同教授の年度初回のオリエンテイション講義を無断で録音してその内容を確認したのことである。

 私は、かつて日本とアメリカの大学で学んで憲法学者になり、その後、日本とアメリカ等の大学で教授として働いた大学人として、この話に接した時、その信じ難い内容を、俄(にわか)には理解できなかった。

 人間は、文明を持つ特異な存在として、この地球上に君臨して来た。この世には、天変地異から人間関係や病気に至るまで、あらゆる出来事に因果関係がある。そして、人々を幸福にする因果関係を発見・増進し、逆に人々を不幸にする因果関係を発見・減殺しようと努力して来たのが、人類文明の歴史である。

 この、あらゆる事象の因果関係を追究する自由を「学問の自由」と言い、これは全ての人間に保障された人権である。しかし、高度の文明を生きる近代以降の人類は、職業としての学問に人生を懸けた人々が権力による弾圧と誘惑を逃れて学問の自由を享受する場としての「学問の自治」を確立した。

 だから、大学において、教授は、担当科目として大学と契約した科目に関する限り、その研究・教育の対象・方法・発展に関する自由を憲法23条により保障されており、教授の自由は、法に触れない限り、歴史の中で学問的評価以外により裁かれることはない。

 だから、大学当局が、教授の教科書を「検閲」したのも論外であるが、されに、教室に不法侵入して講義を録音するという違法行為まで犯して、それが「大学の方針に反する」など評価して、その地位を奪うことは論外である。

 教授という地位で採用された学者には、大学の方針に合わせて学説を曲げて講義をする義務などない。寄川博士の学説に反対な者には、それを批判する学問表現の自由が許されているだけで、そういう討論を経て発展して行くのが学問である。

 さらに。宗教団体が設立したいわゆるミッション系大学における学問の自由について、この際、言及しておきたい。

 まず、ある教団がその博愛主義と経済力の故に大学を設立した例は多い。そこでは、教団の人々が国家に対して大学設立の認可を申請し、その認可が下りた瞬間に、教団とは別人格の大学(学校法人)が生まれたのである。つまり、それは大学であり宗教団体ではないということである。

 大学において「宗教」が語られる場合、それは哲学、歴史学、民族学、社会学等の科学の対象として語られるもので、信仰・布教の一環として語られてはいけないのである。そこでは、学者として教授が、様々な宗教・宗派を科学の対象として批判的に論評する学問の自由が保障されている。

 だから、宗派内の日曜学校の説教師ではあるまいし、大学の一教授が学説として特定の宗派の教義に批判的であるからといってその地位を奪うなどという発想自体が大学人として論外である。これも、学説には学説批判で対応するのが大学人としてのマナーである。

 まるで、単なる人間的な好き嫌いに起因するパワハラを見ているようで、情け無い。

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