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2021年03月13日

早稲田大学教員公募・団交拒否事件第9回裁判

岡山茂(東京ユニオン早稲田大学支部長、早稲田大学政治経済学部教授)
https://www.facebook.com/okayama.shigeru/posts/10217780177688779

早稲田大学教員公募・団交拒否事件第9回裁判

東京地裁 709号法廷 3月11日(木)15時30分
連絡先:労働組合東京ユニオン 電話03-6709‐8954

原告の石井さんはすでに専任の職にあるのになぜ早稲田大学の専任の公募に応募したのでしょうか。その公募の書類選考で落とされ、面接にも残れませんでしたが、なぜ執拗に自分が落とされた理由を知ろうとするのでしょうか。いまいる大学で退職のときまで好きな研究をすることもできるのに、どうして裁判なのでしょうか。
これは私の考えにすぎませんが、まず石井さんが中国政治の研究者であるということが理由にあげられると思います。いまの早稲田大学は、江沢民や胡錦涛が来日すれば、学生やチベット出身の人たちの抗議があっても大隈講堂で講演をさせ、孔子学院の事務所を構内につくらせ、中国からの留学生をふやすのに熱心な大学になっています。石井さんは天安門事件以降の中国政府の動きを一貫して批判的に論じてきた研究者です。政治的な中立性において問題がないとはいえないこの早稲田大学の現状に、自らの研究でもって一石投じたいのであろうと思います。

つぎに、石井さんに「学問の自由」への強いこだわりがあることがあげられます。研究者として十分な業績と実績がある候補者を、その「思想・信条」(たとえば反中国政府的であるなど)を理由に門前払いにされてよいわけはありません。もちろん大学は石井さんを落とした理由をいいませんが、大学側の弁護士は、企業における「採用の自由」が大学にもあるのだと言います。「採用の自由」とは、候補者の「思想・信条」に問題があれば、採用しなくともよいということのようです。しかし大学側の弁護士はさらに、「大学には自治が保障されているのだから、企業以上に採用の自由がある」と主張してはばかりません。
大学とりわけ私立大学が企業のようなものになってしまっていることは事実です。国立大学も法人化され、その教職員は公務員ではなくなりました。しかしそうであるからといって、大学には企業以上の採用の自由があるというのは、暴言ではないでしょうか。大学も企業であるというなら、企業としての倫理をもたねばなりません。そしてたいていの企業は、みずからを大学と言いつのるようなことはありません。

「思想および良心の自由」は憲法で保障されたすべての人の権利です。しかし大学で教えるにあたっては、教員は自らの「思想・良心」がどんなものであれ、それを学問的に正当化したかたちで語ることができなければなりません(さもないと「歴史修正主義」もイデオロギーも「思想・良心」として次世代に伝えられてしまうでしょう)。教員の公募において問われるのは、その正当化の能力であって、その人の「思想・信条」ではありません。ところで石井さんは、学問におけるその正当化の能力にかんして自信をもっているドン・キホーテのような人なのです。それゆえ自分が落とされた理由を、どうしても知らなければならないのです。
菅首相は昨年9月末、日本学術会議が推薦した新会員候補者6名の任命を拒否しました。首相は6名の候補者の学問上の業績を評価するわけではありませんから、彼らの「思想・信条」がおもしろくなかったに違いありません。しかしそうすると、菅首相は自らの「思想・信条」によって「学問の自由」を否定しているということになります。ところで早稲田大学の田中総長もまた、菅首相と同じ過ちを犯しているのです。二人とも「学問の自由」をまもらねばならない立場にあるにもかかわらず、「採用の自由」によって「学問の自由」を侵害しています。ところで大学の学長とは、だれよりも「学問の自由」を守る人ではないのでしょうか。早稲田大学の田中総長は、日本学術会議とともに首相に対して任命拒否の撤回を求めるべきであるのに、自らの意見は述べないと学術院長会議で述べたそうです。

石井さんがあえて闘いつづける理由としてもうひとつ、非常勤講師の問題があると思います。彼は早稲田大学政治経済学部で非常勤講師もしていますが、専任の職のない非常勤講師の人たちが日本の大学でおかれている状況に対して黙ってはいられないのです。
大学はいまや終身雇用の場ではなくなりました。任期つきの採用や「テニュア・トラック制」が導入され、専任教員の身分も不安定になっています。それゆえ教授会でも、とりわけ若手の教員は、テニュア(終身在職権)をもたないうちは自由に発言もできません。また専任教員が非常勤講師の代弁をしようとすると、あなたは専任教員だからそんなことが言えるのだと、専任教員ばかりでなく非常勤講師からも言われてしまうほど、専任と非常勤のあいだにきびしい断絶があるのです。
もとより早稲田大学は非常勤講師に大幅に依存しているにもかかわらず、彼らを「大学人」とみなしておりません。「大学人」とは大学にいて「学問の自由」を享受しうる人間をいうのでしょうが、非常勤講師は大学に雇用される労働者にすぎません(かつて非常勤はどこかの大学に専任の職のある教員が小遣い稼ぎのためにやるものでしたが、いまではどこにも専任のない非常勤が非正規労働者として雇われるという状況が一般化しています)。
専任教員もかすみを食って生きているわけではなく、学生もアルバイトをしないと生きていけません。それゆえ「大学人」もまた労働者であるにもかかわらず、そして労働の権利はすべての人が享受しうる権利であるにもかかわらず。自らを労働者ではないと思っている教員や学生が日本にはまだたくさんいます。フランスでは68年5月に学生と労働者がともに立ち上がり、自分たちの大学を要求しました。そして当時のドゴール大統領を政権の座から引きずり下ろすのに成功しました。ドレフュス事件のときに「知識人」が誕生したフランスだからこそできたことかもしれません。

石井さんはこの日本で「知識人」たろうとしているドン・キホーテのような人なのです。「知識人」とはもとは蔑称で(いまでも「インテリ」にはそういうニュアンスがあります)、ドレフュス事件のころモーリス・バレスのような右翼文化人が、ほんらい形容詞であるアンテレクチュエル(知性的な)ということばを名詞として用いて、「有名でもないのに知識があるのをよいことに偉そうなことをいう生意気なやつら」という意味で使ったのでした。しかしその「知識人」がドレフュスを冤罪から救ったことにより、このことばもよりポジティブな意味をもつようになりました(とはいえいまでも両義的です)。
いまの日本は、石井さんのような人がいないと「学問の自由」も守れないし、大学も救えないところにまできています。できるだけ多くの人がこの裁判に興味をもち、石井さんを支援してくれようお願いしたいと思います。

岡山茂(東京ユニオン早稲田大学支部長、早稲田大学政治経済学部教授)


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