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 カテゴリー 参照基準

2013年12月03日

進化経済学会理事会、参照基準改定版素案に対する意見書

進化経済学会
 ∟●参照基準改定版素案に対する意見書(2013年11月5日公開)

参照基準改定版素案に対する意見書

日本学術会議経済学委員会 
樋口美雄委員長 殿
経済学委員会経済学分野の参照基準検討分科会
岩本康志委員長 殿

進化経済学会は、日本学術会議経済学委員会分科会で策定の作業を進められておられます「経済学分野の参照基準」の第三次素案修正案を拝見し、我が国の経済学の将来に関して少なからぬ危惧を抱いております。

まず、参照基準の基調をなす第二節「経済学分野の定義」において、以前の素案にあったL.ロビンズによる定義は外されこそしましたが、希少な資源を代替的な用途に合理的に配分する人間像を土台とした経済学を構築することは、経済学として自明なこととされている点は変わりがありません。もしも参照基準に求められることが、新古典派経済学を教えるためのカリキュラムのもとを作ることならば、それでも問題はないかもしれません。しかし、求められているのは、我が国の経済学の将来を担う層を育てるための経済学教育の参照基準であります。経済学の未来の可能性を、いかに現在有力とはいえ1つのフレームワーク内に閉じ込めてしまい、多様性の芽を摘み取ってしまえば、与えられた練習問題を器用に解く世代を生み出しても、フレームワークそのものを含めて新しい経済科学の大地を耕すような世代を生み出すことはなくなります。

それに続く第三節「経済学に固有の特性」におきましても、いくつかの違和感を禁じえません。「(1)経済学の方法」では、経済学が「実際のデータに基づいて当初の仮説の適否を論理的・統計的に検証するという、反証可能性に基づいた科学的手法」を用いていると書かれていますが、これは科学哲学から見ればきわめて古風な無理解としか思えません。この点は第四節(2)で、演繹・帰納と並べて論じられている部分で再び強調されています。第一節(3)で「人間の経済的な選択を予測する場合、人間は経済的なインセンティブに反応することが基本的な原理」と言い切り、それ以上は基本をふまえた拡張としてのみ理解しようという論調、さらに「市場メカニズムの有用性が世界の共通認識」であるから「経済学のこの特性は重要」という正当化は前節の論調をさらに際立たせています。社会のあるべき姿はパレート基準で測ることができると、経済学は本当に合意しているのでしょうか。「(2)経済学の体系」では、さらにはっきりと経済学の基礎理論としてミクロ経済学とマクロ経済学をおき、それ以上は応用と位置づけており、続く「(3)経済学の固有の問題点」では、制度分析や歴史分析には「標準的な理論的アプローチ」を軽視していることが問題として、それらをミクロ経済学・マクロ経済学の基礎の上にいかに統合するかを課題とし、経済統計やゲーム理論の適用によって統合する例が紹介されています。ここまでくると、経済学の歴史を、まるで経済学が従前の理論を包括的に取り込み、修正し、精緻化して進んでいく単線的な進化過程と見なしておられるのではないかと不安を覚えます。制度分析、歴史分析に数量分析が不足しているならば、それぞれの目的にとって適切な数量分析が開発されればよいはずで、それがミクロ・マクロ経済学の応用である論理的必然性などはありません。現在主流となっている経済学の土台を含めて、様々な経済学を俯瞰したところに立つメタ学問としての性質を持つ経済学説史が、1学派の応用分野になり下がったとき、はたしてその経済学説史に学問としての生命力は残されているのでしょうか。

続く第四節「経済学を学ぶすべての学生が身に付けることを目指すべき基本的な素養」の(1)ではこれまでの主張がさらに強められ、「社会人」の常識として「利己的・機会主義的経済主体を前提として、経済システム、特に資本主義的市場経済システムを経済合理的観点から論理的に分析する」ことを求めています。理解できない場合には「日常生活を営むにあたってさまざまな不利益を受ける危険がある」とまで述べておられます。そして「一般職業人」の日常生活や意思決定に役立つものとして、ミクロ経済学の練習問題として頻出するトピックを具体的に挙げておられます。経済学の内部からみてさえ特殊なアプローチが社会人の実践的常識であると言い切ることへの違和感を禁じえません。この節の(2)ではコミュニケーション能力に言及し、末尾には「さまざまな経済事情や異文化理解し、異なる価値観を受け入れ、世界全体の発展のために市民として果たす役割」にも言及されていますが、様々な問題を「経済学の多くが解いている制約条件付最適化問題」と理解してしまうことの狭隘さが、コミュニケーションや異文化理解の妨げになるとはお考えにならないのでしょうか。

第六節の最後にこの参照基準が「経済学を専攻せずに教養として経済学を学ぶ学生が獲得すべき経済学の基本的な知識と理解ともなるべきもの」と明言されているのに対し、上のような内容は、極めて進路限定的ではないでしょうか。

環境とその変化のありかたを見渡すことができない人間にとって、また人類の学問にとって、多様性こそ新たな適応と進化の源泉であります。我が国の経済学をめぐる環境は、幸いなことにこれまで多様性の土壌を維持してきたように思います。ただでさえ様々な面で厳しくなっている学問追求の環境を、自分たちの手で悪化させる愚は避けるべきです。どうかすでに枯れかけた他国の基準を参照して我が国の大学教育の豊かな土壌を損なうことのないよう、慎重なご配慮をお願いいたします。
経済学を行き止まりの学問にしてはなりません。

2013年11月5日公開

進化経済学会理事会

経済教育学会、日本学術会議経済学分野の参照基準への意見書

経済教育学会
 ∟●日本学術会議経済学分野の参照基準への意見書

日本学術会議経済学分野の参照基準への意見書

経済学分野の参照基準について、理事会で検討委員会を組織し、その議論を経て、理事会の承認のもとに、下記の意見書を日本学術会議会長大西隆氏宛に、11月27日付けで郵送いたしました。(事務局)

経済学分野の参照基準(原案)に対する意見表明

日本学術会議経済学委員会           樋口美雄委員長 殿
経済学委員会経済学分野の参照基準検討分科会  岩本康志委員長 殿

経済教育学会理事会は、日本学術会議経済学委員会が分科会においてとりまとめた、教育の質保証にかかわる「経済学分野の参照基準(原案)」について、次のような意見をまとめることといたしました。参照基準が社会科学としての経済学教育ないしは経済教育の枠組みを今後規定するとすれば、「原案」は経済教育の発展に少なくないマイナスの作用を及ぼすと懸念したからです。本学会は30年にわたって経済教育に対する理念、方法、実践について、小・中・高・大学を繋いで、また市民生活レベルにおいて、多角的な検討を加えてまいりました。そうした研究、実践の積み上げの成果も踏まえて、今後の参照基準の確定作業に対して、学会理事会としての意見を示すことといたしました。

1.経済学は人間の社会的活動を対象とする学問であり、歴史的発展と共にさまざまなパラダイムにおいて研鑽され、展開されてきている。したがって、学問として、思想として経済社会を分析する体系はさまざまに展開される。また、分析体系を基礎に政策形成や政策評価をする場合も、さまざまなパラダイムからの評価があり得る。こうした社会科学としての経済学の特徴を理解し、自主的、自立的に思考できること、そしてそれらができる人材の育成に役立つことこそ、経済学教育の質保証のための基本的な参照基準であるべきであろう。すべての職種が高度化し、多様化が進んでいる現在、ある種の要領を画一的に示し、型にはめることだけでは、複合化し深刻化する社会問題の解決が図れる経済人育成につながらない。

2.経済学は、近代の成立と同時に政治経済学から出発した。その後、いくつかの学派が展開し、その基本的な概念から異なる経済学体系が成立している。その延長線上に現在のミクロ経済学やマクロ経済学があるのであり、同時に、それとは異なる基本概念を持つ政治経済学(ないしは社会経済学)も発展してきた。さらに、進化経済学や行動経済学などの新たな試みが展開されてきている。多種多様な政治経済形態が混在する国際社会に対応しうるグローバル人材の育成のためには、基本的に学ぶべき学問体系を市場体系の分析に関わるミクロ経済学およびマクロ経済学に止めることなく、市場を支える法的、政治的、社会的、文化的枠組みを重視する政治経済学(ないしは社会経済学)に基づく基本的な経済学体系も、教育すべき学門体系として位置づける必要があろう。さらには、いくつかの学問体系が広く展開していることもカリキュラムにおいて考慮されるべきである。

3.経済学は、人間社会の実践的な活動の一つである経済活動を窓口にして、社会全体の動態を分析する学問である。したがって、制度的、歴史的、文化的、自然科学的な面から経済現象を分析するアプローチが必要であり、極めて有効である。単に、経済学の標準化モデルないしはツールのみで経済現象にアプローチすると、グローバル化した世界経済で柔軟に対応し、活躍する人材育成がかなわず、日本の将来の経済が海外諸国にますます後れを取る可能性が高くなる。多角的なアプローチが許される、またそれを特徴とする学問体系が、日本における経済学の伝統でもあることを意識した参照基準であるべきである。

以上をまとめますと、経済そのもの、したがって経済システムは多種多様であります。単一のモデルを目指して分析することの限界は、長い歴史の中で、様々な社会の中で、そして現代の経済学の中においても検証されていることであります。また「国際標準」とされる経済教育がなされ、それにもとづく政策が展開されてきたアメリカの現状を見るにつけて、「参照基準(原案)」の限界は今や明らかであると言わざるを得ません。経済学は様々な政策理念の摺合せのなかで、多様な理論体系や学派の論争のなかで発展してきました。さらに経済学の教育は、日本経済を発展に導き、現在を支えるジェネラリストとしてのホワイトカラー層を輩出する役割を、学部を越えて広く大学教育の中で果たしてきました。こうした視点も踏まえて、今後の経済の展開にも十分に対応できる、柔軟な参照基準というものが重視されなければならないと考えます。

2013年11月25日
経済教育学会理事会

社会経済史学会、「経済学分野の参照基準(原案)」(提案1)に関する意見書

社会経済史学会
 ∟●「経済学分野の参照基準(原案)」(提案1)に関する意見書

「経済学分野の参照基準(原案)」(提案1)に関する意見書


 日本学術会議において、現在議論されている「大学教育の分野別質保証」のための「経済学分野の参照基準」の内容に関して、社会経済史学会常任理事会は、経済学教育が危機に直面していると認識し、常任理事会として意見を表明することにいたりました。

(1)経済学こそ相対化される必要がある
 本参照基準は、学士課程教育における経済学の質保証のためのものであるが、「学力に関する最低水準や平均水準を設定するものでもなく、また、カリキュラムの外形的な標準化を求めるコアカリキュラムでもない」とした上で、「各大学が、各分野の教育課程(学部・学科等)の具体的な学習目標を同定する際に、参考として供するものである」(1頁)という日本学術会議の回答(参考文献[2])にそって作成されている。
 しかし、本提案の趣旨は、こうした指針とは逆に、「今後の学士課程教育は、一方で、わが国の伝統である経済学に対するアプローチの多様性を尊重しつつ、他方で……国際通用性を持つ質の高い教育が行われることが期待される」(1?2頁)としながらも、結果として、「わが国特有の方法で行われてきた『多様なアプローチに基づく経済学教育』からは距離をおいた報告」(1頁)になっている。
 その原因は、社会科学の一環として有効性を持ちうるはずの経済学の体系を、「国際的に共通したアプローチ」「標準的アプローチ」としてミクロ経済学・マクロ経済学(および統計学)の特定科目を基礎科目と位置づけることにより、経済学の対象を自ら狭隘化させていることから生じていると思われる。
 本提案は、参考文献[4]の”Nature and context of economics”(p.1)や OECDの報告書[5]を基礎に作成されているが、これらの報告書においては、ミクロ・マクロのレベルと静学・動学のレベル、国際的な文脈や社会経済的な文脈での理解の必要性など世界的視野で経済事象を理解するうえで重要と思われる論点が指摘されているものの、本提案に十分に反映されているとは言い難い。
 とくに、本提案では、経済学の特性として、「学問用語の定義と意味が世界的に標準化」されていることや「経済学を習得した者の間での国際的なコミュニケーションが容易である」ことが強調され、「文化や社会の多様性が認められるべきだという相対主義が強い学問分野とは対照的である」(6 頁)と指摘されていることからすると、本提案でいう経済学は絶対主義の強い学問分野であるとみなすことができる。しかし、本提案でも指摘されているように、「経済学は発展途上の学問」(7 頁)、「新しく若い学問」(17 頁)であって、「成熟した学問分野」ではない(7頁)とすれば、むしろ逆にこうした「標準的アプローチ」は絶対化されるべきではなく、相対化されるべきものであると考えられる。経済学が学問として自らを相対化し得ないとすれば、学生に
「標準的なアプローチの有効性とその限界」(8 頁)や「経済学の社会的意義とその限界」(19頁)について認識させることは難しいであろう。

(2)多様な世界を知るためには多様なアプローチが必要である
 本提案における経済学の定義と経済学の専門分野との関係はかならずしも明確でないが、「経済学の体系」に関して「ミクロ経済学、マクロ経済学が……共通した経済学的アプローチを提供している」(6頁)という記述からすると、主に経済理論に基礎をおく経済学を意味していると考えられる。しかし、現状のミクロ経済学・マクロ経済学が、経済事象を分析するための十分なモデルを提供できていないところに問題があることは明らかで、そのために「経済学者間で意見を異にする」(7頁)、あるいは「多くの理論的説明が併存」(8頁)し、「その主要な原因は、理論の妥当性を検証する実証分析の検定力が弱いことにある」(8頁)が故に、「不正確な教育」(17頁)になる可能性も多分にでてくる。
 たしかに、人間を豊かにする「手段は多様」であるが故に選択が重要であり(3頁)、「現代社会には多様で膨大な数の社会問題が存在する。これらの諸問題の全体像を知り、それに対処する仕方を考えておくことが、社会で生きていくうえで必要不可欠であるものの、経済学の専門教育だけでそれを十分に習得することはできない」(19頁)ことは提案でも指摘されているものの、各国・各地域の経済主体の行動は、自然資源の賦存状態や地政学的環境により歴史的に規定されていることは言をまたない。しかし、経済学が「市場のメカニズムや市場の取引に参加する経済主体の行動」(3頁)や「市場経済に基づいた先進国経済を前提」(7頁)としているのであれば、世界人口の多数をしめる新興国や途上国の貧困や医療・教育の格差など「複雑な仕組み」(8頁)に基づく世界の種々の経済的諸問題の解決のためには、自ずからその限界は明らかである。
 日本の経済学教育について、本提案では、「わが国では、制度や歴史を通じた理解には理論的・数量的な分析を必ずしも必要としないこともあり……標準的なアプローチを軽視し、制度的アプローチや歴史的アプローチを強調することが多い」(7?8頁)と指摘されているが、こうした歴史的・制度的アプローチは日本に特有なことではなく、世界各国に共通してみられることである。「経済史や経済制度に関する教育自体も、できるだけミクロ経済学、マクロ経済学と関連づけて行われることが望ましい」(8 頁)という記述は、「ミクロ経済学、マクロ経済学に関する教育自体も、できるだけ経済史や経済制度と関連づけて行われることが望ましい」と書き換えられるべきであろう。
 「歴史的アプローチや制度的アプローチ」が必要なのは、「市場経済を中心とする現代の経済制度を本質的かつ歴史的に理解するため」や「標準的なアプローチと補完的に使用する」(7頁)ためだけではなく、現実の世界には、ミクロ経済学やマクロ経済学の既存の理論的な設定では視野に入ってこない数多くの経済事象があり、こうした問題を発見し、分析することが経済学にとってひとつの重要な課題であるからに
ほかならない。

(3)「演繹的思考」と「帰納的思考」の重要性について
 本提案では「経済学に固有な能力」として「演繹的思考」と「帰納的思考」があげられている。経済学教育において演繹的思考と帰納的思考の双方を学習することが重要であることはいうまでもない。この部分は参考文献[4][5]での指摘を反映したものと思われるが、これらの文献ではミクロ経済学・マクロ経済学に特化した記述ではないので違和感はないものの、本提案での演繹的方法と帰納的方法との関係について
は疑問をもたざるを得ない。
 3-1「経済学の方法」では、モデルの構築・分析と「現実経済との整合性のチェック」の重要性が指摘され、これが「演繹的思考」と「帰納的思考」に対応するものとなっている。「演繹的思考」は「一定の仮定に基づいた理論モデル」の構築(12 頁)とされているのに対して、「帰納的思考」は「現実の経済データや個別の事例から一般的な法則を導き出し、理論モデル自体やそこで採用されている仮定の妥当性を検証するという作業」と定義されている。しかし、ここでいう「帰納的思考」とは「演繹的思考」の可否の判断にともなって当然行われるべきプロセスであって、「帰納的思考」とは本質的に異なるものである。「標準的アプローチ」における「帰納的思考」がその程度のものでしかないのであれば、多分に再検討の余地がある。
 統計学的知識を身につけ、収集した経済データを分析・解明するスキルを学習することで「数量データの本質を見抜く洞察力を獲得する」(12 頁)ことが重要であることは言うまでもないが、経済現象のすべてが定量化できるわけではなく、定量化できない多くの記述資料や視聴覚資料も存在することはいうまでもない。こうした定量化可能な資料と定量化できない資料とを史料批判をふまえた上で総合的に思考し、判断する能力を経済学的アプローチによって習得することが、社会性を持つ市民としての学生の教育にとって重要なことと考えられる。このことは、学生が「標準的アプローチ」による経済学を学習する際の「機会費用」(10 頁)についても考察する必要があることを示している。

 経済学教育にとってミクロ経済学、マクロ経済学、統計学などの基礎理論についての学習が必要であることは否定しないが、経済社会は制度もふくめて歴史的に形成されたものである以上、多様性を重視せずに、理論による単一の解の可能性だけを求める思考方法は、多様な社会現象を対象とする社会科学としての経済学の意義を逆に損なうものであると言わざるをえない。経済学が「現在」の状況を相対化し、客観的・科学的に把握できないかぎり、経済学によって未来を語る選択肢はとざされてしまうことを、われわれは危惧している。

2013 年 11 月 27 日
社会経済史学会代表理事
杉山伸也

経済学史学会、経済学分野の参照基準原案への要望書

経済学史学会
 ∟●経済学分野の参照基準原案への要望書

要望書

日本学術会議経済学委員会
委員長 樋口美雄 様

経済学委員会 経済学分野の参照基準検討分科会
委員長 岩本康志 様

 日本学術会議協力学術研究団体である経済学史学会の幹事会は、「経済学分野の参照基準原案(2013年11月11日付文書)」(以下「原案」と呼ぶ)を検討した結果、貴委員会に対し、以下のような要望を行うことにしました。
 学士課程教育の最終目的は――特に「創造的な人材の育成」(原案1頁)が求められている場合――真実とされていることを学生に真実と考えさせ、正しいとされていることを正しいと考えさせることにあるのではなく、何が真実であり、何が正しいのかを自分で判断する力を身につけさせることにあります。したがって、当該分野で確立された専門知識の内容そのもの以上に、知識がつくり出される精神と過程を学ばせなくてはなりません。
 このような立場に立って原案を読むと、全体として、確立された専門知識の習得に力点が置かれ、知識を作り出す精神・能力の涵養という視点が弱いように思われます。私たち経済学史学会幹事会は、経済学(および経済思想)の歴史を教えることが、後者の目的を達成するための有益な方法だと考えます。ミクロ経済学やマクロ経済学を基礎とする「標準的アプローチ」を採る場合にも、「発展途上の学問」(原案7頁)である経済学が、どのような経済社会や思想にもとづいて、またどのような学問的経緯をたどって形成されたかを教えることや、「標準的アプローチ」に収斂しない他の経済学説があることを教えることは、学生に、経済学を学ぶことの意義を悟らせ、それを使うときの限界をわきまえさせる上で不可欠だと言えます。原案が参考としている英国の分野別参照基準(Subject Benchmark Standard, p. 3)にも、学生が身につけるべき能力のひとつとして、”appreciation of the history and development of economic ideas and the differing methods of analysis that have been and are used by economists”と記載されています。
 経済学の歴史を通じて多様な経済学的思考法を学ぶことは、社会人、一般職業人の常識としての基本知識であるだけでなく、専門職や研究者を目指す者が視野狭窄に陥ることを防ぎ、問題設定能力、コミュニケーション能力、グローバルな市民性を高めることに貢献すると思われます。
 以上の点を考慮いただき、経済学史(経済思想史)を学士課程教育に不可欠な基礎として位置づけ、その旨を記載していただきますよう、強く要望します。

2013年12月1日
経済学史学会幹事会

基礎経済科学研究所、「経済学分野の参照基準(原案)に対する意見表明

基礎経済科学研究所
 ∟●「経済学分野の参照基準(原案)に対する意見表明

「経済学分野の参照基準(原案)に対する意見表明

日本学術会議経済学委員会 樋口美雄委員長 殿
経済学委員会経済学分野の参照基準検討分科会 岩本康志委員長 殿

基礎経済科学研究所は、創設(1968年)以来約半世紀にわたって、「勤労者とともに勤労者のための経済学を創造」すること、また「働きつつ学ぶ権利を担う経済科学の総合」をめざして、自主的な学術研究団体(学会)として活動してきました。日本学術会議に登録され、また、かつて学術会議内に設置されていた「経済理論研究連絡会」にオブザーバーとして参加していました。多数の社会人研究者、労働者研究者を輩出するとともに、『人間発達の経済学』、『日本型企業社会の構造』など30冊以上の書物を出版し、人間の成長と公平な社会の実現、地球環境が大切にされる公正な日本経済づくりのために尽力しています。

そのため、現在貴委員会が作成をされています「経済学分野の参照基準」には重大な関心を持って見守ってきました。「原案」をもとに公開シンポジウムが開催されるに当たり、また「広く意見」が求められていることに鑑み、私たちの意見を表明することといたしました。「原案」の内容には大きな問題があり、将来の日本の経済学の発展を阻み、経済学を国民から遊離されたものにする極めて危険な試みであるという意見です。この点に関しては、数百名の賛同を得て集められています「経済学分野の教育『参照基準』の是正を求める全国教員署名」や経済理論学会、進化経済学会の各要望書もまったく同じ趣旨から危惧が表明されていると思われますが、基礎経済科学研究所としては、市民フレンドリーな「市民の経済学」をめざしてこの半世紀活動してきた経緯を踏まえて、仕事や労働、生活や人生などの現場から、経済学の古典や社会思想の学説を援用して考える経済学の教育と研究の重要性を強調したいと思います。少なくともこうした経済学の学習に道を拓き、連結する参照基準でなければならないと考えます。

現在、恐慌・失業・貧困・犯罪、家庭・地域・環境の破壊、さらには震災復興などのさまざまな社会問題に苦しむ国民からみた時、「参照基準(原案)」の想定する経済学は大きな反省を迫られると言わざるを得ません。「国際基準」とされているアメリカ中心の経済学教育の定着と、それに基づく経済政策の展開が、恐慌・失業・貧困・犯罪、家庭・地域・環境の破壊などのさまざまな社会問題を生み出していると、アメリカ国民だけでなく世界の人々の多くが感じています。そして、こうした課題の解決には、そうした経済学に代わる「新しい」経済学が求められており、その発展には「マルクス経済学」を含む「政治経済学(ポリティカル・エコノミー)」ないし「社会経済学」の教育・研究は不可欠であります。こうした時に、このような「参照基準(原案)」が出されることは、国民・市民の経済学者コミュニティーへの大きな不信を招くことにしかならないでしょう。

日本学術会議のホームページには「日本学術会議は、わが国の人文・社会科学、自然科学全分野の科学者の意見をまとめ、国内外に対して発信する日本の代表機関です」と書かれています。この趣旨から今回の「参照基準」も、真に多様な経済学者の意見をまとめるものでなければなりません。1つの固定的な枠組みを強調する具体的な「カリキュラム」やキーワードの提示を含む「参照基準」には反対せざるを得ません。数多くの経済学関連研究者、いくつかの学会が表明する危惧を払拭できない現在の「原案」は根本的に書き換えられる必要があると考えます。
日本学術会議も、また研究者や学者が国民から遊離した存在であってはなりません。多くの意見に耳を傾けて、私たちの声が反映される基準の作成に向けて、要望意見を表明させていただきました。

2013年11月28日
基礎経済科学研究所常任理事会